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アントワーヌ=アンリ・ジョミニ〔またはアントワーヌ=アンリ・ド・ジョミニ()〕(, , 1779年3月6日 - 1869年3月24日)は、スイス出身の軍人、軍事学者である。フランス第一帝政、のちにはロシア帝国に仕えてナポレオン戦争に参加し、その経験をもとに1838年に『戦争概論』を著して発表した。 戦略、戦術、兵站を主な研究領域としており、研究業績としては軍事学の方法論、戦争術、戦いの原則、内線および外線作戦、後方連絡線、兵站に関する研究を挙げることができる。ジョミニに最も重要な思想的影響を与えた人物には、科学的方法を軍事学に導入しようとしたヘンリー・ロイドや上官であったナポレオン・ボナパルトなどを挙げることができる。逆に影響を受けた人物には、パトリック・レオナルド・マクデューガル、アルフレッド・セイヤー・マハンなどがいる。 == 略歴 == 1779年にジョミニはスイス・ヴォー州のペアン市に生まれた。一時はヴェルデンブルク州立士官学校で学んでいたが、後にスイスとフランスの商業学校で学んで銀行に就職する。1798年にスイス革命が勃発すると、ジョミニは銀行を退職してヘルヴェティア共和国で新設された軍隊に入隊し、陸軍大臣の秘書として勤務しながら大尉の階級を得て大隊長となる。しかし1801年、22歳の時にスイス軍での軍歴に限界を悟って辞職し、しばらくパリで商業に従事した。1804年、25歳ではじめて軍事学の著作『大陸軍作戦論』を執筆し、この研究業績を提出してフランス軍とロシア軍での職を求めたが、失敗した。 1805年、ナポレオン麾下の将軍で、1802年に反フランス暴動が勃発した時にスイス総督であったミシェル・ネイが、ジョミニの才能を見出して抜擢した。ジョミニは臨時の私設副官、フランス陸軍の第6軍の一員として、ウルムの戦いやアウステルリッツの戦いに参加する。アウステルリッツの戦いの後にジョミニの著作を読んだナポレオンは、ジョミニを正式に採用して大佐の階級を与えた上で、ネイ元帥の上級副官に任命した。1806年からは27歳の若さでナポレオンの幕僚として任命され、幕僚長ベルティエの反発にもかかわらず、ネーの幕僚長を兼務している。1808年にはネイのスペイン遠征に従って評価が高まるにつれて、ベルティエと彼の仲間たちの反発からジョミニは次第に組織内で孤立していき、1809年にベルティエから悪評を吹き込まれたネイはジョミニの幕僚長の職を解任した。1810年にベルティエがいるフランス軍での軍歴にも行き詰まりを覚え、ロシア軍に移るために辞職を願い出る。しかし、ナポレオンによる説得のために少将に昇進してフランス軍に残り、1811年にナポレオン1世の修史官、1812年ヴィルナとスモレンスクの総督と位階を上昇させた。ロシア遠征にも、肋膜炎の治療のためにパリへ帰還するまでは参加している。 1813年にはネイの誤解も解決して幕僚長に復帰しており、バウツェン会戦ではジョミニの功績を評価する中将進級名簿の筆頭に抜擢されたが、ベルティエとの軋轢は続いており、ベルティエは名簿からジョミニの名前を恣意的に削除した上で、職務怠慢を理由として彼を禁固刑に処した。ジョミニはフランス軍を離れることを決めてロシア軍へ移り、アレクサンドル1世と謁見して陸軍中将の階級と侍従武官の職を得ることになった。1815年には、かつての上官であったネイの助命のために努力するが失敗する。1828年、49歳の時にニコライ1世の下で露土戦争に参加し、その業績からアレクサンドル大綬章を受けた。1837年にはアレクサンドル2世の軍事教官となる。ロシア軍の近代化に努める傍ら、1838年に軍事理論の大著『戦争概論』を著した。晩年に体調を崩すとロシア軍を離れることが許され、1869年に90歳の年齢でパリ郊外のパッシィにて死去する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントワーヌ=アンリ・ジョミニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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