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アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ : ミニ英和和英辞書
アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ : ウィキペディア日本語版
アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ[かー]

アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(, 1901年3月20日 - 1987年10月22日)は、オーストリア=ハンガリーの皇族。オーストリアでは1919年よりアントン・ハプスブルク=ロートリンゲン()と名乗った。
== 生涯 ==
ハプスブルク=トスカーナ家の一員であるレオポルト・ザルヴァトール大公と、その妻でスペイン王女の称号を持つブランカ・デ・ボルボンの間の三男(第7子)として生まれた。外祖父はスペインカルリスタ王位請求者にしてフランスレジティミスト王位請求者、マドリード公カルロス・マリアであった。
アントンは二重君主国の崩壊と第一次世界大戦の終結まで、両親と一緒にニーダーエスターライヒ州ので暮らしていたが、やがて元皇族に対する強制的な国外退去命令が父に下ったために国外に避難した。アントンは両親と一緒にスイスドイツフランスなどで亡命生活を送った。
1931年7月26日、アントンはルーマニアシナヤにあるにおいて、ルーマニア国王フェルディナンド1世の末娘イレアナと結婚した。2人の結婚後、イレアナの兄のルーマニア王カロル2世は「ルーマニア人は王女とハプスブルク家の人間との結婚を歓迎しない」という政治的な理由を盾に、アントン夫妻にルーマニア国外で暮らすように命じた。このためアントンとイレアナは最初はミュンヘンウィーン近郊の、そして後にはオーストリアのゾンネベルク城に落ち着いた。
第二次世界大戦中、アントンは1944年末までドイツ国防軍の空軍パイロットとして従軍し、除隊後は家族と一緒にルーマニアのブラン城に住んだ。1944年8月23日に起きたクーデターによってドイツとルーマニアの協定が破棄されると、ドイツ国民であるアントン夫妻とその子供および従者たちは抑留ないし国外退去を迫られてもおかしくない状態になり、危険にさらされた。1947年12月30日、ルーマニア王ミハイ1世が廃位・追放されると、アントン一家も国外に脱出した。一家はスイスやアルゼンチンを転々とし、1950年代初めにはアメリカ合衆国で暮らした。1954年にアントンはイレアナと離婚してオーストリアに帰国し、死ぬまで祖国で暮らした。1953年に末弟のカール・ピウスが死去すると、その跡を継いで派のカルリスタ王位請求者となり、「カルロス9世()」を称したが、1961年にはその地位を四弟のフランツ・ヨーゼフに譲っている。
2006年5月26日、ルーマニア文化相は、アントンの次男ドミニクにブラン城を正式に返還した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ」の詳細全文を読む




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