|
アンドレ・バザン(André Bazin、1918年4月18日 アンジェ - 1958年11月11日 ノジャン=シュル=マルヌ)は、戦後フランスで影響力の非常に大きかった映画批評家である。「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」と称されることもある。 == 来歴・人物== ===『カイエ』まで === 1918年4月18日、フランス・メーヌ=エ=ロワール県アンジェに生まれる。 はじめ教職を志し、1938年にパリ郊外オー=ド=セーヌ県サン=クルーの師範学校に入学。しかし1941年に教職資格の口頭試問に失敗し、やがてパリで「文学会館 Maison des Lettres」を旗揚げしたばかりのピエール=エメ・トゥシャール(俳優・劇作家、1903年 - 1987年)と親しくなる。 シネクラブを創設し、ロジェ・レーナルトを招いた。バザンは雑誌『エスプリ ''Esprit''』に連載されていたレーナルトの記事「スペクタクルの小さな学校 ''La Petite école du spectateur''」の愛読者だったのである。 1944年のフランス解放が国民に与えた衝撃は大きかった。この混乱のさなかで、戦争中に損なわれた文化を取りもどそうという動きが起こる。バザンもこの使命に燃え、「労働と文化 ''Travail et culture''」と「民衆と文化 ''Peuple et culture''」と契約し、大衆教育に関わった。ドイツ、アルジェリア、モロッコなどの数々の工場でシネクラブの創設や講演活動に参加。 いっぽうで『レクラン・フランセ ''L'écran français''』、『パリジャン・リベレ ''Le Parisien Libéré''』、『エスプリ』といった雑誌に、映画に関する論文を発表。また、『ラジオ=シネマ=テレヴィジオン ''Radio-Cinéma-Télévision''』誌(後の『テレラマ ''Télérama''』誌)の創刊にも参加。この頃、少年鑑別所を出た10代のフランソワ・トリュフォーを引き取って面倒をみていた。家族に恵まれなかったトリュフォーにとって、バザンは精神的父親であり、庇護者のような存在となってゆく。 やがて1951年ジャック・ドニオル=ヴァルクローズとともに、『カイエ・デュ・シネマ ''Les Cahiers du Cinéma''』誌を創刊、その死去まで編集長をつとめる(1951年 - 1958年、初代編集長)。一定の世代の批評家と未来の映画人たちがこぞってこの雑誌に寄稿し、彼らがヌーヴェルヴァーグの一翼を担うこととなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレ・バザン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|