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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アンナ=レナ・グローネフェルト(Anna-Lena Grönefeld、1985年6月4日 - )は、ドイツ・ニーダーザクセン州ノルトホルン出身の女子プロテニス選手。2009年のウィンブルドンと2014年の全仏オープン混合ダブルスで優勝した。これまでにWTAツアーでシングルス1勝、ダブルス14勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス7位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 姓はグローネフェルドとも表記されるがドイツ語の発音ではグレーネフェルトに近い〔Grönefeld の ドイツ語 の発音 öは「エ」と転写する。〕。 == 来歴 == グローネフェルトは父親の勧めにより、5歳から自宅近くのテニスクラブで兄と一緒に練習し始めた。ジュニア選手の大会では、2002年全仏オープンジュニア女子ダブルスで優勝した後、翌年の2003年全仏ジュニア女子シングルス優勝があり、早くから全仏オープンを得意にしてきた。同年にプロ入り。2004年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップのドイツ代表選手に選ばれ、同年の全仏オープンで4大大会にデビューする。2005年、グローネフェルドはダブルスでベテランのマルチナ・ナブラチロワと組む機会が多くなり、この時期にダブルスで多くの好成績を出した。彼女は4大大会の女子ダブルスで、2005年ウィンブルドンから2006年全豪オープンまでの3大会連続ベスト4進出を記録したが、2005年ウィンブルドンと全米オープンはナブラチロワと組み、2006年全豪オープンはメガン・ショーネシー(アメリカ)と組んだ。 2006年3月、グローネフェルトはメキシコ・アカプルコ大会の決勝でフラビア・ペンネッタ(イタリア)を 6-1, 4-6, 6-2 で破り、女子ツアー大会のシングルスで初優勝を果たした。この年の全仏オープンでベスト8に入り、ここで4大大会シングルスの自己最高成績を出した。準々決勝では第5シードのジュスティーヌ・エナン=アーデン(ベルギー)に 5-7, 2-6 のストレートで敗れた。ところが、全仏8強入りの直後から、彼女は左膝腱の断裂や右肩の故障に悩まされるようになる。2007年ウィンブルドン1回戦敗退の後、4大大会にも出場できなくなったグローネフェルトは、2007年度末の世界ランキングで200位以下に降下した。 2008年全米オープンで、グローネフェルトに再起の機会がやってくる。この大会で予選3試合を勝ち抜いた彼女は、1年ぶりに戻ってきた4大大会本戦1回戦で、第11シードのダニエラ・ハンチュコバ(スロバキア)に 6-4, 6-2 のストレート勝ちを収めた。2回戦でワイルドカード(主催者推薦出場)のジェシカ・ムーア(オーストラリア)、3回戦で第17シードのアリーゼ・コルネ(フランス)を破って勝ち進んだ彼女は、4回戦で当年度の全仏オープン準優勝者ディナラ・サフィナ(ロシア)に 5-7, 0-6 で敗れ、2006年全仏オープン以来の8強入りを逃した。 2009年のウィンブルドンで、グローネフェルトはマーク・ノールズ(バハマ)と混合ダブルスのペアを組み、第9シードから初優勝を決めた。2人は決勝戦で、第1シードのリーンダー・パエス(インド)&カーラ・ブラック(ジンバブエ)組を 7-5, 6-3 のストレートで下した。ドイツ人女子選手によるウィンブルドン優勝は、1996年に女子シングルス7勝目を挙げたシュテフィ・グラフ以来13年ぶりの偉業となった。4大大会全体を通じても、グラフが最後の4大大会優勝(22勝目)を決めた1999年全仏オープン以来10年ぶりの出来事になる。 2012年からグローネフェルトはダブルスに専念している。7月のロンドン五輪に直前欠場したアンドレア・ペトコビッチの代役としてオリンピックに初出場した。ユリア・ゲルゲスと組んだダブルスに出場し、2回戦でロシアのエカテリーナ・マカロワ&エレーナ・ベスニナ組に 2-6, 1-6 で敗退した。 2014年全仏オープンではジャン=ジュリアン・ロジェと組んだ混合ダブルスで決勝に進出した。決勝ではユリア・ゲルゲス&ネナド・ジモニッチ組を 4-6, 6-2, で破り4大大会混合ダブルス2勝目を挙げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンナ=レナ・グローネフェルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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