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アンネのバラ (Souvenir d'Anne Frank、アンネ・フランクの形見) は、自然を愛し、とりわけバラが好きだったアンネ・フランクの未来永劫に存在する「形見」として捧げられたバラである。日本へは父のオットー・フランクから寄贈された物が広まり、愛と平和のシンボルとなっている〔英語では symbol of peace and reconciliation. 用例は参考資料の Lancashire Telegraph, 2012 などを参照。〕。 アンネのバラは蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色する特徴がある。これは、もし生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現している。 ==歴史== 1955年、ベルギーで数多くの品種を作り出した育種家のヒッポリテ・デルフォルヘは、母親が ''Rêve de Capri'' で父親が ''Chanteclerc'' からなる交配種を作出した。 1959年、ヒッポリテはスイス旅行中にオットーと出会った。アンネの日記に感銘を受けていたヒッポリテは自分が作り出した交配種の中から最も美しいバラをアンネの形見として捧げる事を計画し、オットーの賛同を得た。家でバラを育てる事も提案したが、この時点ではオットーの自宅には庭がないため育てる事ができなかった。 1960年、バラは Souvenir d'Anne Frank (アンネ・フランクの形見) として品種登録された。 1962年、オットーは庭付きの家に引越し、バーゼルの自宅でアンネのバラが栽培できるようになった。 1971年4月4日、イスラエルを訪問公演していた日本の合唱団がネタニアのレストランに居合わせたオットー夫妻と出会い、交流が始まる。 1972年12月25日、オットーから贈られたバラの苗10本が到着したが輸送に時間がかかり枯死寸前だった。バラ愛好家や専門家に分けて育ててもらうも9本が枯死。 1973年春、生き残った1株が京都の嵯峨野で開花。 1975年8月、NHKの教養番組でアンネのバラが紹介される。当初、あまりに話ができすぎているので、番組関係者は手紙と写真を見るまでは疑念に思っていた。 1975年秋、杉並区の中学校からアンネのバラを育てたいとの要望があり、合唱団が2度目の演奏旅行の折にオットーに依頼。「アンネと同年代の、日本の少年少女たちの夢をかなえてあげたい。」との意向により10本のうち3本が中学に送られる事になった。 1976年3月、日本航空の協力により短期間で大阪空港に到着した2度目の苗木は10本とも状態良好。うち3本は当日中に東京都農業試験場に運ばれ技師達により育てられた。 1980年4月、アンネのバラの教会が献堂される。 2001年4月、日本人学校の教師からアンネのバラの教会に、ドイツでアンネのバラを咲かせることが可能かを尋ねるメールが届く。フランクフルトで聞いた範囲では誰も存在を知らなかったという状況が伝えられた。 2001年冬、検疫に必要な2度の栽培地検査に合格。航空貨物として送ると倉庫に留め置かれ枯死する恐れがあるので手荷物として送る事を提案される。 2002年1月、関空にて輸出検査に合格。バラがアンネの生誕地フランクフルトに里帰りする。 2012年1月、英国のマンチェスターで国際ホロコースト記念日にアンネのバラが植樹される。同日、バーンリーでも植樹される。 2012年3月、日本で増えたバラが英国ヨークの地にて植樹。ミュージカル ''Souvenir d'Anne Frank'' の主役の ''Azusa Ono'' と ''Elizabeth Mansfield'' が地元の小学生らと参加〔英語の音声を聞くと冒頭から20秒程の所で Elizabeth Mansfield と Azusa Ono が自己紹介している。〕。 2014年、アンネの日記破損事件が発生。被害の大きかった杉並は区の全図書館にアンネのバラを植えていくことを決め、中央図書館に駐日イスラエル大使、日本ユダヤ教団会長、オランダ王国大使館一等書記官らを招き植樹式を行なった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンネのバラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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