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南カメルーン連邦共和国(みなみカメルーンれんぽうきょうわこく、)は、カメルーンに属する領域のうち北西州と南西州を合わせた地域において展開されているカメルーンからの分離独立運動において、当該地域の独立を主張する政府が自称している国名。アンバゾニア共和国(アンバゾニアきょうわこく、)とも呼ばれる。 南カメルーンの面積は北西州と南西州を合わせた42,383km²である。人口は210万人。政府所在地はブエア。バメンダは第2所在地。公用語はイギリス植民地時代から英語を話す。 国土の大半がフランス領であったカメルーン共和国において、南カメルーンの当該2州はイギリス領であったため、カメルーンの独立(国家樹立)後に主導権を握ってきたフランス語系住民に対する2州の英語系住民の不満(経済格差など)が長くくすぶっていた。そのため、分離独立運動が盛んに行われている。 隣国ナイジェリアとはバカシ半島の領有権をめぐって、SCNCがバカシ半島は南カメルーンの一部だと領有を主張しているため、対立がある。 == 歴史 == 1884年にはドイツ植民地帝国(1885年 - 1916年)が成立した。 1922年に、となった。 1954年にエマニュエル・M・L・エンデレイが南カメルーンの自治権を主張。1955年、ジョン・フォンチャが南カメルーンにてカメルーン民族民主党(KNDP)を設立し、1959年の投票で現状維持が多数を占め、フォンチャがイギリス領カメルーンの首相に就任、アルバート・ムコングが副首相となった。翌年の1960年にナイジェリアがイギリスから独立した。ナイジェリアとの統合の声もあったが、フォンチャはナイジェリアとの関係を絶ち切った。さらにフォンチャは呼びかけにより、投票で1961年に北部はナイジェリアと統合。残った南部はカメルーン共和国(独立したフランス領カメルーン)と統合するカメルーン連邦共和国(1961年 - 1972年)となった。しかし、当初はエンデレイは独立を強く主張していたため、フォンチャとは対立していた。ビアフラ戦争(1967年 - 1970年)。1972年、国号をカメルーン連合共和国に変更。 1980年代になるとカメルーン英語話者運動(CMA)などの南カメルーンの独立を主張する組織が、活発に活動するようになった。1984年には国号を現在のカメルーン共和国に変更。 1994年、フォンチャらかつての指導者も加わった、独立運動組織南カメルーン国民会議(SCNC)がブエアに設立。カメルーン政府が弾圧に乗り出したため、1999年12月30日、ブエアの独立を主張する法務省フレデリック・アロブウェデ・エボングを中心に、SCNCの議長アヤンバ・E・オグン、ジェームズ・サブムらメンバーがブエアにあるラジオ局(CRTV)を占拠し、2州からなる南カメルーンの分離独立と主権回復を宣言した。エボングが、自身の独立宣言の声明が入ったテープをラジオ局で流した。その為、エボングらSCNCメンバーはラジオ局を占拠及び独立宣言したとして、反逆罪の罪で拘束され、ヤウンデの投獄で1年間過ごした。しかし、その後も独立を主張し続けた。2000年、SCNCはイギリスに亡命していたエボングを大統領として指名。2001年、エボングは南カメルーン臨時政権の組織を発表。副大統領にヌフォー・エンガラ・ヌフォー、その他に大統領府官房長や外務、国防など25人の閣僚を指名した。2002年にはこれらのメンバーらは反逆罪で弾圧逮捕されている。現在のSCNCの国家議長はアヤンバ・E・オグン。また、エボングらは1999年から設立宣言されているアメリカの亡命政府で活動している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南カメルーン連邦共和国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Southern Cameroons 」があります。 スポンサード リンク
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