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アンヘル・カブレラ(Ángel Cabrera, 1969年9月12日 - )は、アルゼンチン・コルドバ出身のプロゴルファー。 == 人物 == 2007年の全米オープンと2009年のマスターズで優勝し、メジャー大会2勝を挙げた選手である。身長183cm、体重95kgの大きな身体から繰り出す飛距離を最大の持ち味とする選手で、「アヒル」を意味する“''El Pato''”(エル・パト)というニックネームで呼ばれている。プロゴルフ界でも屈指の“飛ばし屋”タイプのひとりとして知られ、ヨーロッパツアーの「ドライバー平均飛距離」で1位をマークしてきた。これまでにヨーロッパツアーで通算3勝、国際試合で17勝を挙げてきた。世界ランキング自己最高位は9位。 カブレラは10歳の時から、故郷のコルドバにある「コルドバ・ゴルフクラブ」でキャディを始めた。1989年にプロ入りし、1996年からヨーロピアンツアーに参戦を開始する。2000年12月、世界ゴルフ選手権シリーズに組み込まれた「EMCワールドカップ」がアルゼンチン・ブエノスアイレスにある「ブエノスアイレス・ゴルフクラブ」で開かれ、カブレラは先輩選手のエドゥアルド・ロメロとコンビを組んで出場したが、アメリカのタイガー・ウッズとデビッド・デュバルのコンビに敗れて2位に終わった。2001年4月1日、カブレラは地元の「アルゼンチン・オープン」でツアー初優勝を果たし、その勢いに乗って翌週のマスターズに乗り込んだ。初出場でいきなりマスターズの優勝争いに加わったが、最終日にスコアを崩して 8 アンダーパー(-8, 280ストローク)の10位タイに終わる。2002年5月、「ベンソン・アンド・ヘッジズ・インターナショナル・オープン」で欧州ツアー2勝目を達成。 2005年はアンヘル・カブレラのゴルフ経歴を通じて、最も充実した年となる。5月29日、ヨーロッパツアーの高額賞金大会の1つである「BMW選手権」で優勝し、ツアーの賞金ランキングで自己最高の5位をマークした。同年9月に行われた「プレジデンツカップ」で、カブレラは初めて国際選抜チームの代表選手に選ばれ、出場5試合のうち4試合に勝利を収めた。この後、カブレラは2005年10月2日付で自己最高の世界ランキング9位に躍進し、アルゼンチンのプロゴルファーとして史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした。 2006年はマスターズで8位、全英オープンで7位に入ったが、優勝争いの終盤で崩れるパターンが多かった。2007年の全米オープンで、カブレラは5オーバーパー(+5, 285ストローク)をマークし、タイガー・ウッズとジム・フューリクの2人を1打差で振り切ってメジャー大会初優勝を達成した。 2年後の2009年マスターズで、カブレラは最終ラウンドの最終組をケニー・ペリー(アメリカ)と一緒に回った。途中まで単独首位を走っていたペリーが17番・18番ホールで連続ボギーを犯したことにより、ペリーとカブレラ、チャド・キャンベル(アメリカ)の3人が 12 アンダーパー(-12, 276ストローク)で並び、優勝争いはプレーオフにもつれ込んだ。プレーオフ最初のホールは18番で行われ、まずキャンベルがボギーで脱落する。2ホール目は10番に移り、ここでペリーがボギーとしたため、パーで終了したカブレラがマスターズ初優勝を決めた。これは南米出身のプロゴルファーによる最初のマスターズ優勝であり、カブレラ自身にとっては2007年全米オープン以来のメジャー2勝目となる。 アルゼンチンでは、それまでゴルフはあまり知名度のないスポーツであった。当地のゴルフ選手としては、1967年の全英オープン優勝者となったロベルト・デ・ビセンゾ(Roberto de Vicenzo)が伝説的な存在である。その後、1954年生まれのエドゥアルド・ロメロが1980年代後半からヨーロッパ・ゴルフツアーで息長く活躍し、多くの後輩選手たちを育ててきた。カブレラもロメロから資金面で多大な援助を受けた選手の1人である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンヘル・カブレラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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