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アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック : ミニ英和和英辞書
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック ( リダイレクト:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック ) : ウィキペディア日本語版
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック[ちょうおん]

アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa〔〕、1864年11月24日 - 1901年9月9日)は、フランス画家。一般的に姓は「トゥルーズ=ロートレック」、または単に「ロートレック」と呼ばれることが多い。
== 生涯 ==

南仏のアルビで生まれる。トゥールーズ=ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる。両親はいとこ同士〔『アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック』(マティアス・アルノルト(著)真野宏子(訳)、PARCO出版 、1996年)10ページ ISBN 978-4-891-94471-1〕〔『もっと知りたいロートレック―生涯と作品』(杉山菜穂子(著)高橋明也(著)、東京美術、2011年)6ページ ISBN 978-4-808-70933-4〕で、父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。
トゥールーズ=ロートレックは、幼少期には「小さな宝石(プティ・ビジュー、)」と呼ばれて家中から可愛がられて育った。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳のときには母親と共にパリに住まうようになった。そこで絵を描き始めた。すぐに母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになった。しかし13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であり、現代の医学者はこの症状を骨粗鬆症骨形成不全症といった遺伝子疾患と考えている。病気により、アルビに戻ったトゥールーズ=ロートレックは活動を制限され、父親からは疎まれるようになり、孤独な青春時代を送った。
1882年パリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホエミール・ベルナールらと出会っている。
絵画モデルであった、マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女をシュザンヌと呼び始めたのもトゥールーズ=ロートレックである。
画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ(赤い風車、)」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(プティ・トム、)、偉大なる芸術家(グラン・タルティスト、)」と形容される。
また、脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。
彼のポスターやリトグラフ日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いた。
アブサンなどの長年の飲酒により体を壊した上、梅毒も患ってトゥールーズ=ロートレックは次第に衰弱していった。家族によってサナトリウムに短期間、強制入院させられた後、友人らと旅行に出た後の1901年8月20日にパリを引き払って母親のもとへ行き、同年9月9日、ジロンド県のサンアンドレ=ドゥ=ボワ近郊にある母親の邸宅、マルロメ城で両親に看取られ脳出血で死去した。最期の言葉は彼が障害を持つようになってから、彼を蔑み、金品は与えたが彼の描く絵を決して認めなかった父親に対して発した「Le vieux con!(馬鹿な年寄りめ!という意)」だった〔Toulouse-Lautrec the full story チャンネル4〕。36歳没。城の近くのヴェルドレに埋葬された
死後、彼の作品は父親の意向により、母親とパリでの少年時代からの親友で画商のモーリス・ジョワイヤンによって管理されることとなった。彼らによって1922年、アルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立された。
ジョワイヤンはトゥールーズ=ロートレックの伝記及び、美食家であり料理人やパーティーの有能なホストだった彼の一面を紹介した『独身モモ氏の料理法』といった本を著した。現在、『独身モモ氏~』のレシピはアルビの多くのレストランで供されている〔フランス発 芸術家のレシピを再現するレストラン ぐるナビプロ〕。
生家のボスク城は親しい間柄だった母方の従兄弟ガブリエル・タピエ・ド・セレイランが相続し、後にその末裔の女性によって博物館として管理されるようになった〔ロートレックが愛したボスク城 メゾン・ミュゼ・デュ・モンド〕。没したマルロメ城はワインの醸造で知られている。
なお、トゥールーズ=ロートレックを扱った映画としては1952年のアメリカ映画『赤い風車』、1999年のフランス映画『葡萄酒色の人生』などがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」の詳細全文を読む




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