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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アン・ブーリン(,1507年頃 - 1536年5月19日)は、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。父の代で名字の綴りを から に変更したが、アン自身も と呼ばれることがあった。 はアンという名前の当時の愛称であり、日本語でもアン・ブリンと表記されることもある。父は駐仏大使、のちウィルトシャー及びオーモンド伯爵となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワード。 == 生涯 == アンの曾祖父ジェフリーはノーフォークの農家出身で絹織物工見習いとして上京した後、財産を成してロンドン市長にまで上り詰めた。 その息子ウィリアムはリチャード3世よりサーの称号を賜った〔クリストファー・ヒバート『女王エリザベス(上)』P6〕。 ブーリン家は次々と伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことで、爵位や領地を増やしていった。 トマスにはアイルランド有数の名家オーモンド伯爵の相続権(共同相続権という歴史家と、わずかながらという歴史家がある)があった。トマスはサリー伯爵(ノーフォーク公爵の相続人が名乗るタイトル)の娘エリザベス(ヘンリー8世の元愛人だったという説がある)と結婚し、1男2女が生まれた。その一人がアンであった。 つまりブーリン家は、わずか4代前まで平民(地方農民)の家系であった。そのため研究家の一部はブーリン家の家系図において、意図的にジェフリーの出身地を記載しようとしない例もある〔R・マイルズ『我が名はエリザベス』(近代文芸社)〕。 幼少期にメヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。 オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えた。他に詩人のサー・トマス・ワイアットやのちのノーサンバーランド伯爵ヘンリー(ハル)・パーシーとのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外に、これといった特徴がなかった、と記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote) やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。 ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(のちのメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。 しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった〔映画『ブーリン家の姉妹』では「王妃の座を要求したのは親族であってアンの意志ではない」といった筋立てであったが、歴史的証拠はない。〕。 カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は、教皇の認可を得てこの方法を利用している)。 ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったことが結婚無効の理由になりえたが、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得ていたため、合法的な結婚と見なされていた。また、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対しており、教皇庁は許可を出すことが難しかった。キャサリンは国民の人気が高かったために、国内からも反対の声が大きかった。 ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意した。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。 これに反対したトマス・モアは処刑された。また、国王至上法によってカトリックの修道院の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。 1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。 翌6月1日、聖霊降臨祭の日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言される。 1533年9月、アンは第2王女エリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。 アンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたメアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要した。 アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石等に浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。 1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだ(黄色はイギリスでは喜びと祝いの意味を持つ)。その後、アンは男児を流産した。男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れたことを見てとり、アンの敵たちは力を増した。 1536年5月1日、結婚から2年後、アンは国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟ジョージ・ブーリンだった。 同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アン・ブーリン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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