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アン女王戦争(アンじょうおうせんそう、英語:Queen Anne's War、1702年 - 1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国(以下フランス)とイングランド王国(後にグレートブリテン王国〔1707年、イングランド王国とスコットランド王国はグレートブリテン王国として統一され、1707年連合法の下にウェストミンスターにおいて1つの議会を共有した。その後スコットランド軍は、全ての植民地戦争においてグレートブリテン王国軍としてイングランド王国軍に加わった。〕、以下イギリスで統一)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国(以下スペイン)も戦争に加わった。 アン女王戦争は3つの局面から成っている。 # スペイン領フロリダとイギリス領カロライナ植民地はお互いに攻撃し合い、1702年、イギリス軍はスペイン領フロリダのサン・アグスティンを攻囲した。この戦争の本質は両勢力と同盟したインディアン部族同士の代理戦争であり、イギリス軍はモービルを拠点とするフランス軍と交戦した。このアメリカ南部の戦争では大きな領土の変化はなかったが、現在のジョージア州南部を含んだスペイン領フロリダにおけるインディアンの人口のほとんどが駆逐され、この地域でのスペインの宣教活動のネットワークが破壊されるほどの影響があった。 # イギリス領ニューイングランド植民地は、アカディアおよびカナダを拠点とするフランスおよびインディアン同盟軍と交戦した。イギリス軍は幾度となくケベックを標的とした遠征を行うも、成功しなかった。フランスおよびインディアン同盟軍はカナダからニューイングランドに侵入し、現在のメイン州を含むマサチューセッツ湾直轄植民地を標的とした襲撃を行った。この襲撃の中で最も有名なものに1704年のディアフィールド奇襲があり、この襲撃によってマサチューセッツ州のディアフィールドを占領した。しかし、1710年にニューイングランドから海路カナダ東部に侵攻したイギリス軍は、ポートロワイヤルの戦い (1710年)に勝利してアカディアの首都を陥落させた。 # イギリスはニューファンドランド島のセントジョンズを拠点とし、島の支配を巡ってを拠点とするフランスと争った。争いのほとんどは、相手側の入植者に対する経済破壊活動によって行われた。1709年、フランス軍はセントジョンズを占領したが、イギリス軍はフランスがそれを放棄した後、即座に再占領した。 1712年に停戦協定が結ばれ、1713年のユトレヒト条約が締結されてアン女王戦争は終結した。この条約によりイギリスはニューファンドランド島とハドソン湾地域をフランスから譲渡されて獲得し、一方でケープ・ブレトン島を含むセントローレンス湾の島々を維持した。一部の条件は曖昧であり、多くのインディアン部族に対する対応はこの条約に含まれておらず、将来の紛争の要因となった。 == 背景 == 1700年11月にスペイン王カルロス2世が死去し、その後、次の王位を巡って1701年にスペイン継承戦争が勃発した。戦争初期はヨーロッパの少数の大国間の争いに留まっていたが、1702年5月、イギリスがスペインとフランスに宣戦布告したことによって戦争は拡大した〔Thomas (1913) pp. 405–407〕。北アメリカでの戦闘はこれらの大国の植民地を隔てていた境界地方に沿って起こり、これまでに蓄積されてきた互いの軋轢によってさらに拍車がかけられた。この不協和音は、イギリス植民地の中でも南西部のカロライナ植民地や北部のマサチューセッツ湾直轄植民地およびニューファンドランド島(当時のニューファンドランド島は、ハドソン湾で行われる貿易や新たな植民地への入植を行うための前線基地であった)のような、北部および南西部の境界地方沿いにおいて最も顕著であった〔Stone (1989) pp. 161, 165〕。 イギリス植民地におけるバージニア植民地およびニューイングランドの支配地域の当時の推定総人口は250,000人であった〔Craven (1968) p. 288〕。これらの植民地の人口は沿岸部に集中しており内陸部の入植地は小さかったものの、時にはアパラチア山脈にまで到達していた〔Winsor (1887) p. 341 1687年の南東植民地の地図を参照。〕。大部分のヨーロッパ人の入植者たちは、アパラチア山脈の西側や五大湖の南側などの大陸の内陸部についてごくわずかな知識しか有していなかった。これらの地域は現地の部族によって支配されていたが、イギリスとフランスの商人たちはこの地域に侵入した。スペイン領フロリダの宣教師たちは宣教活動のためのネットワークを確立し、多くの現地住民たちを制圧してキリスト教に転向させた〔Weber (1992) pp. 100–107〕。スペイン人の人口はおよそ1,500人と比較的少ないものの、彼らが宣教したインディアンの人口は20,000人と推定されている〔Cooper and Terrill (1999) p. 22〕。1699年、フランス人の探検家はミシシッピ川の河口を見つけ、その付近の(現在のミシシッピ州、ビロクシの近く)に小さな植民地を確立した〔Weber (1992) p. 158〕。その後、彼らは内陸部に向けて通商路を確立し始め、イギリスと同盟を結んでいたチカソー族の天敵であった大部族チョクトー族との友好関係を築いていった〔Crane (1919) p. 385〕。これらの先住民たちの全ては、初期の探検隊や商人たちによってもたらされた、天然痘のようなユーラシア大陸由来の伝染病に苦しめられた〔Waselkov and Hatley (2006) p. 104〕。 フランス人のアメリカ大陸南部への到達は、カロライナ植民地が確立していた既存の内陸部との通商およびスペインの領有権の主張を脅かし、3つの大国間の緊張を引き起こした。フランスおよびスペインとその同盟国(アウクスブルク同盟)は、終結したばかりであった大同盟戦争において対立していた当事国であった〔Weber (1992) pp. 158–159〕。サバンナ川南部の沿岸部におけるカロライナ植民地とスペイン領フロリダの相反する領有権の主張は、ローマ・カトリックのスペインとプロテスタントのイギリスという宗教的な対立も相まって憎しみに覆われた〔Arnade (1962) p. 32〕。 北部での対立は領土問題に加えて強い経済的な要素を持っていた。ニューファンドランド島は、セントジョンズを拠点とするイギリス側とを拠点とするフランス側に分かれており、両者ともにいくつかの小さな常設の入植地を有していた。この島には、ヨーロッパからの漁師によって利用される、多くの季節的な入植地も存在していた〔Drake (1910) p. 115〕。これらの入植地に永住していた移民はイギリス人が2,000人足らず、フランス人も1,000人足らずであったが、より多くの季節的な訪問者がいた〔Pope (2004) pp. 202–203〕。彼ら入植者たちは、グランドバンクの漁場を巡ってお互いに争っており、現在のニューブランズウィック州およびノバスコシア州全体を含むアカディアや、現在のメイン州を含むマサチューセッツ湾直轄植民地からの漁師もまた、グランドバンクの漁場を利用していた〔Drake (1910) p. 115,203〕。ヌーベルフランスとマサチューセッツ湾直轄植民地との間の国境線もまた不明確であった。すでにそれは大同盟戦争に付随したウィリアム王戦争において対立状態にあり、現在のメイン州の近くに位置するのフランス人入植地において、ペノブスコットとケベック川の領土について争われていた〔Drake (1910) p. 36〕。セントローレンス川、マサチューセッツの主に沿岸部の入植地およびニューヨークの間の境界地方は、いまだ主にやイロコイ連邦のような現地住民に支配されており、以前の紛争においてイギリスおよびフランス双方が襲撃のための遠征に使用していたハドソン川とシャンプレーン湖を繋ぐ回廊もまた、同様に現地住民の支配下にあった。インディアンの脅威は病気と先の戦争による人口減によっていくぶんか緩和されていたが、彼らは依然として入植地域外の有力な脅威と見られていた〔Drake (1910) p. 150〕。 ルパート・ランド〔Newman (1985) pp. 87, 109–124〕として知られるハドソン湾領域では、アン女王戦争の間においてほとんど戦闘が発生しなかった。1680年代に始まるイギリスとフランスの企業間の競争による多くの論争の場面はあったものの、1697年のレイスウェイク条約によってハドソン湾はただ一つの駐留所を除きフランスの管理下に置かれた。1709年、その唯一の駐留所であったオンタリオ州のフォートオールバニがフランスに攻撃されたフォートオールバニの戦いが唯一の重要な出来事である〔Bryce (1900) p. 58〕。ハドソン湾会社はレイスウェイク条約によってその領域が返還されなかったことに不満を抱いており、アン女王戦争後の戦後交渉によってその領域の返還を求めるロビー活動を成功させた〔Newman (1985) pp. 127–128〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アン女王戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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