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イブン・スィーナー(、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー()、980年 - 1037年6月18日)は、イスラム世界を代表する知識人で、哲学者・医者・科学者。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった〔ナスル『イスラームの哲学者たち』、18-19頁〕。 (英語圏では「アヴィセンナ」と読まれる)〔矢島『アラビア科学史序説』、31,227頁〕。「頭領」を意味するシャイフッライース()〔小林「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』、159頁〕、「神の証」()〔ナスル『イスラームの哲学者たち』、16頁〕の尊称でも呼ばれている。中国との交流が多いトランスオクシアナ地方の生まれで名前のスィーナーが「シナ」の発音に似ていることから彼の出身を中国と関連付ける説、アラビア語において「スィーナー」が「シナイ」を意味する点からユダヤ人と関連付ける説も存在する〔五十嵐『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』、98-99頁〕。 当時の世界の大学者であると同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価され、ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えた〔。後世の人間は彼を「第二のアリストテレス」、「アリストテレスと新プラトン主義を結びつけた人間」と見なし〔梶田『医学の歴史』、144頁〕、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼした〔トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、291頁〕。 アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並ぶ巨頭として名前が挙げられている〔前嶋『アラビアの医術』、118頁〕。 タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣には、イブン・スィーナーの肖像が使用されている。 == 生涯 == === 幼少期 === イブン・スィーナーは、980年8月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として〔加藤『中央アジア歴史群像』、42頁〕、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる〔今井「イブン・シーナー」『アジア歴史事典』1巻、202-203頁〕〔『イブン・スィーナー』、39頁〕。5歳のときに一家はブハラに移住し〔梶田『医学の歴史』、143頁〕〔前嶋『アラビアの医術』、135頁〕、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた〔加藤『中央アジア歴史群像』、43頁〕。 イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという〔トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、287頁〕。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び〔トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、288頁〕、ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ〔。ナティリからユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び〔〔『イブン・スィーナー』、40頁〕、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った〔。しかし、イブン・スィーナーが読んでいた書籍は受験参考書のような入門用の啓蒙書であり、原典の逐語訳とは大きく内容が異なっていた〔五十嵐『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』、102-105頁〕。 その後ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び〔、16歳の時にはすでに患者を診療していた〔〔加藤『中央アジア歴史群像』、45頁〕。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した〔。とはいえ、この時イブン・スィーナーが使用していたテキストもヒポクラテスやガレノスの著書の逐語訳ではなく、ダイジェストともいえる家庭医学の指南書であり、後年にイブン・スィーナーは医学の奥深さを知ることになる〔五十嵐『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』、26頁〕。 しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている〔〔〔矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、141-142頁〕。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した〔〔『イブン・スィーナー』、41-42頁〕。彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり〔〔『イブン・スィーナー』、42頁〕、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた〔〔〔〔。 イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している〔〔前嶋『アラビアの医術』、136頁〕。勉強の疲れがたまった時にはワインを飲んで気分を回復させ〔加藤『中央アジア歴史群像』、44頁〕、後年にはワインを詠った詩をしたためた〔加藤『中央アジア歴史群像』、55頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イブン・スィーナー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Avicenna 」があります。 スポンサード リンク
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