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アーガイル公爵()は、イギリスの公爵位。 スコットランドのクランの総帥の家系であるキャンベル家は1445年にキャンベル卿(スコットランド貴族)、1457年にアーガイル伯爵(スコットランド貴族)を与えられた。1701年に10代アーガイル伯アーチボルド・キャンベルがアーガイル公爵(スコットランド貴族)に叙されたのがアーガイル公爵位の始まりである。また1892年には8代アーガイル公ジョージ・キャンベルが連合王国貴族としてのアーガイル公爵位を与えられている。 == 歴史 == キャンベル家はスコットランド中西部の巨大なクラン(スコットランドの氏族集団)の総帥家系である。そのキャンベル家にスコットランド貴族爵位が与えられたのは1445年に(?-1453)が「キャンベル卿(Lord Campbell)」に叙されたのが最初である。 この爵位を継承した孫の第2代キャンベル卿(1433-1493)は、西部のクランのステュワート家の娘イザベラと結婚し、それによってキャンベル家は西部クラン最大のクランとなった。彼の代からキャンベル家の長は「マッカラン・モア」と呼ばれるようになった。彼は1457年にスコットランド貴族「アーガイル伯爵(Earl of Argyll)」、1470年に「ローン卿(Lord Lorne)」に叙されるとともに、中央政界で活躍し、や等を歴任した。また1488年には第5代アンガス伯ら他のスコットランド貴族とともにジェームズ3世廃位の軍を起こして同王を敗死に追い込んでいる。 初代伯の曾孫である4代アーガイル伯(1507頃-1558)は1557年に第4代モートン伯ジェイムズ・ダグラスとともにプロテスタント信仰を誓う「第一次信仰盟約(The First Covenant, or The First Bond)」を締結しており、スコットランド内の親イングランド派政治家だった。 4代伯の曾孫8代アーガイル伯(1607-1661)は1641年にチャールズ1世よりスコットランド貴族「アーガイル侯爵(Marquess of Argyll)」に叙され、1642年にはチャールズ1世のためにスコッツガーズを創設したが、ピューリタン革命では長老派としてチャールズ1世の宗教政策に反対して議会軍に転じている。しかし国王の処刑には反対し、1651年にはチャールズ2世をスコットランド国王に擁立した。それによってクロムウェル率いる共和軍のスコットランド侵攻を招くと国王を見限ってクロムウェルに恭順したが、王政復古後の1661年5月に大逆罪で処刑された。 その長男の9代アーガイル伯アーチボルド(1629-1685)は一貫して王党派として行動してクロムウェルに投獄されていたため、王政復古後もチャールズ2世から重用されたが、王弟ヨーク公ジェームズ(ジェームズ2世)とは不仲だったため、チャールズ2世崩御後にモンマスの反乱に加担し、反乱鎮圧後には大逆罪で処刑され、所領も没収された。 その長男である10代アーガイル伯アーチボルド(1658-1703)はオランダへ渡り、オレンジ公ウィリアム(後のイングランド王ウィリアム3世、スコットランド王ウィリアム2世)に協力し、1689年にはウィリアム3世を王位につける名誉革命の成功に尽力した。その功績でアーガイル伯爵位と所領を復帰させた。1692年にウィリアム3世がスコットランドの各クランに忠誠の誓約書の提出を求めた際、グレンコウのクランのマクドナルド家だけ提出が遅れ、マクドナルド一族が皆殺しにされる事件があったが、この虐殺はウィリアム3世の命を受けた10代アーガイル伯の仕業であったという(グレンコウの虐殺)〔森(1994) p.130〕。ウィリアム3世への忠勤から1701年6月23日には「アーガイル公爵(Duke of Argyll)」「インヴァレリー、マル、モーヴァーン、タイリー卿(Lord of Inverary, Mull, Morvern and Tirie)」「キンタイア=ローン侯爵(Marquess of Kintyre and Lorn)」「ロッコウ=グレニーレ子爵(Viscount of Lochow and Glenyla)」「キャンベル=コウォール伯爵(Earl of Campbell and Cowall)」(全てスコットランド貴族)に叙せられた。 その長男である2代アーガイル公ジョン(1680-1743)は1707年のイングランド・スコットランド合同交渉にあたってスコットランド代表を務め、イングランド優位の連合条件を呑んだ。また1715年のジャコバイトの反乱の際に鎮圧の指揮を執ったことで知られる。彼は1705年11月26日にイングランド貴族爵位「グリニッジ伯爵(Earl of Greenwich)」、1719年4月27日にグレートブリテン貴族「グリニッジ公爵」(Duke of Greenwich)に叙されているが、男子相続人がなかったため、一代で絶えている。 この2代アーガイル公と続く3代アーガイル公(1682-1761)の代にアーガイル公爵家のスコットランドにおける影響力は最高潮に達し、スコットランドの地方政治を手中におさめるようになった。そのためしばしばロンドンの中央政府と対立した。 5代アーガイル公(1723-1806)は、軍人としてキャリアを積み、ホイッグ党の庶民院議員も務めて、1766年12月23日にはグレートブリテン貴族「サンドリッジ男爵(Baron Sundridge)」に叙された。 その長男である6代アーガイル公ジョージ(1768-1839)は父からアーガイル公爵位を継承する前の1799年8月2日に母からグレートブリテン貴族「」を継承している。 8代アーガイル公ジョージ(1823-1900)は自由党の政治家としてや王璽尚書などの閣僚職を歴任し、1892年8月7日には新たに連合王国貴族「アーガイル公爵」(Duke of Argyll)に叙された。 その長男である9代アーガイル公ジョン(1845-1914)は、襲爵前にカナダ総督を務め、またヴィクトリア女王の四女ルイーズと結婚しているが、子供はできず、爵位は甥に移っている〔。 11代アーガイル公(1903-1973)はハイランド師団に属して第二次世界大戦に従軍したが、1940年のフランス戦でドイツ軍の捕虜になっている〔。 2016年現在の当主は13代アーガイル公(1968-)である。彼はキャンベル氏族長と地主としての仕事をしながら、ペルノ・リカールでコンサルタントも務め、スコッチ・ウイスキーを推進している〔。 アーガイル公爵家の居城は現在に至るまでスコットランド・・にあるである。家訓は「忘れるなかれ()」〔。''」を継承している。 8代アーガイル公ジョージ(1823-1900)は自由党の政治家としてや王璽尚書などの閣僚職を歴任し、1892年8月7日には新たに連合王国貴族「アーガイル公爵」(Duke of Argyll)に叙された。 その長男である9代アーガイル公ジョン(1845-1914)は、襲爵前にカナダ総督を務め、またヴィクトリア女王の四女ルイーズと結婚しているが、子供はできず、爵位は甥に移っている〔。 11代アーガイル公(1903-1973)はハイランド師団に属して第二次世界大戦に従軍したが、1940年のフランス戦でドイツ軍の捕虜になっている〔。 2016年現在の当主は13代アーガイル公(1968-)である。彼はキャンベル氏族長と地主としての仕事をしながら、ペルノ・リカールでコンサルタントも務め、スコッチ・ウイスキーを推進している〔。 アーガイル公爵家の居城は現在に至るまでスコットランド・・にあるである。家訓は「忘れるなかれ()」〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーガイル公爵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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