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アークティック号沈没事故()は、ニューヨーク市のコリンズ・ラインが所有する外輪式蒸気船のアークティック号が、1854年9月27日、ニューファンドランド島海岸沖50マイル (80 km) で、自船よりかなり小さな船であるベスタ号と衝突した後に沈没した事件である。アークティック号の乗客および乗組員リストを見ると、おそらく400人以上が乗船していたが、その中で88人が生き残り、その大半が乗組員だった。乗船していた女性と子供は全て死亡した。 アークティック号は、1850年から大西洋を横断して旅客と郵便を運ぶ定期便を運航していたコリンズの4隻あった蒸気船の中では最大かつ最も著名な船だった。アークティック号の船長ジェイムズ・ルースは当初、損傷を受けて今にも沈没する危険性があると考えたベスタ号を援助しようとした。ルースが自船の喫水線以下に大きな穴が開いていることを発見したとき、安全な所へ寄せるために最寄りの陸地にむけて自船を走らせることにした。その作戦は失敗した。船がまだ陸地から遠い時にエンジンが停止した。アークティック号の救命艇容量はその時乗っていた人数の半分ほどしかなく、実際にルースが救命艇を降ろすよう命じたときに、秩序が壊れ、それに乗ることのできた者は慣れた者、すなわち乗組員と、体力的に勝る男性乗客ということになった。溢れた者達は間に合わせの筏を造ったが、それでも大半は船を離れることすらできず、衝突から4時間後に船が沈んだ時に、船と共に海に沈んだ。ベスタ号は当初回復不能な損傷を受けたと見られていたが、その耐水性のある隔壁によって沈まず、ニューファンドランドのセントジョンズの港まで辿り着くことができた。 アークティック号を離れた救命艇6隻のうち2隻が無事ニューファンドランド島の海岸まで到着し、もう1隻の救命艇は通りがかった蒸気船に拾われた。さらにこの蒸気船は間に合わせ筏から生き残っていた者達数人も救助した。その中にはルース船長も入っていたが、ルースは当初船と共に海中に引きずり込まれた後に海面に浮上して来ていたものだった。他の救命艇3隻は跡形も無く消えた。当時の電信技術は能力に限りがあり、アークティック号遭難の知らせがニューヨーク市に届いたのは沈没から2週間も経った後だった。この船を失ったことに対する大衆の悲しみは、乗組員の臆病さを知って急速に怒りに変わった。この災難に関してマスコミは十分な調査を要求したが、何も行われず、その行動の法的な責任を問われた者も居なかった。旅客船に対してさらなる安全対策を施す要求があったが、それもなし崩しになった。ルース船長は大衆からの非難について全体的に責任を免れたが、海上生活から引退した。生き残った乗組員の中にはアメリカに戻らないことにした者もいた。コリンズ・ラインは大西洋航路の運航を続けたが、さらに船を失う事故があり、破産状態となって1858年に会社を閉じた。 == 背景 == === 大西洋航路 === 19世紀最初の数十年間、大西洋の貿易は長距離を走る蒸気船の開発によって革新が起きた。帆船からの移行は緩りとであり、船主は当初、船は大洋を渡るために十分な量の石炭を持っていけないという一般的な説に影響されていた〔 〕。1838年、イザムバード・キングダム・ブルネルの巨大な外輪蒸気船グレート・ウェスタンと、アメリカ船シリウスがほぼ同時に大西洋を渡ったことで、それまでの考え方の誤りが証明された。グレート・ウェスタンはイギリスのブリストルからニューヨーク市まで14日と12時間で大西洋横断を完成させており〔、それまでの帆船ならば、偏西風や東向きの潮流に逆らう西行き大西洋航路は5週間以上を要していた〔Shaw, p. 10.〕。 大西洋を渡す定期蒸気船航路を始めた最初の海運会社は、ブリティッシュ・アンド・ノースアメリカ・ロイヤル・メイル・スティーム・パケット社であり、一般的にはその創設者であるカナダ人サミュエル・キュナードからキュナード・ラインという名で知られた。1840年7月4日、ブリタニアがリヴァプールからノバスコシア州ハリファックス経由でボストンに向けて出港し、大西洋航路の始まりとなった〔Flayhart, p. 19.〕。キュナード・ラインは大西洋を渡す主要郵便船だったので、イギリス政府とアメリカ合衆国郵政省から補助金を受けていた。アメリカ人の中には母国が所有する海運会社が恩恵を受けるべきと考える者もおり、面白くない点だった〔Brown, pp. 18–19.〕。デラウェア州選出アメリカ合衆国上院議員ジェイムズ・A・ベアードが、アメリカの海運会社に補助金を出すようアメリカ合衆国議会を動かそうとする者達の一人であり、「アメリカ人はイギリスの海洋における優位について知らされるのに飽きて来るだろう。..議会が慎重にアメリカの海運専門家を選定し、この男キュナードを絶対的に征服するために完全に自由に進めていくことを認めることを提案する」としていた〔Shaw, p. 11.〕。1845年、アメリカ合衆国郵政長官が大西洋横断郵便契約者の入札を行った。1847年3月3日に発表された落札者はニューヨークの船主エドワード・ナイト・コリンズだった〔Flayhart, p. 20.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アークティック号沈没事故」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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