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アードルノ : ミニ英和和英辞書
アードルノ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アードルノ ( リダイレクト:テオドール・アドルノ ) : ウィキペディア日本語版
テオドール・アドルノ[ちょうおん]

テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年9月11日 - 1969年8月6日)は、ドイツ哲学者社会学者音楽評論家作曲家マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家。
ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。その一方アドルノがナチス機関誌に発表した批評がナチスへの協力だとして問題視されている〔井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006.Espen Hammer, Adorno and the Political,Routledge, 2005. Section3:Approaches to Fascism - The Paradoxes of Resistance.〕。
作曲家としても作品を残し、アルバン・ベルクに師事した。アルノルト・シェーンベルクをはじめとした新ウィーン楽派を賞賛する一方、イーゴリ・ストラヴィンスキーパウル・ヒンデミットなどの新古典主義的傾向をもつ音楽や、ジャン・シベリウスリヒャルト・シュトラウスヨーゼフ・マルクスといった、20世紀において後期ロマン主義のスタイルをとり続ける作曲家には否定的であった。また、一貫してジャズポピュラー音楽には批判的な態度をとりつづけた。
== 経歴 ==

ヘッセン州フランクフルト・アム・マインでワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルント(Oscar Alexander Wiesengrund)と、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノ(Maria Barbara Calvelli-Adorno)の間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。
アドルノは学業成績も極めて優秀であり、ギムナジウムを2年飛び級で卒業した上にアビトゥーアに首席で合格した。フランクフルト大学に入学して哲学・音楽・心理学・社会学を学んだ。
アドルノは大学時代から音楽批評を多く発表していたが、目指していたのは作曲家であった。1924年に大学を卒業すると、本格的に作曲を学ぶためアルバン・ベルクを頼ってウィーンへ移るが、肩入れしていたシェーンベルクらの音楽が世間で不評であったことに落胆し、再び音楽批評の活動に戻った後、1926年にウィーンを去った。
その後フランクフルトに戻り、次いでベルリンに滞在するが、ナチスの勢力伸長に伴い、ユダヤ系の出自であるアドルノは1934年にイギリスへ、さらに1938年にアメリカに渡る。この頃から「テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)」という名前表記を用いるようになった。
第二次世界大戦後の1949年、フランクフルト大学の社会研究所 () が再スタートを切った際に帰国、ホルクハイマーと共にこの研究所の所長に就任し、亡くなるまでここに籍を置いた。ヨアヒム・カイザーハインツ=クラウス・メツガーは彼の教え子に当たる。夏のダルムシュタット夏季現代音楽講習会ではシュトックハウゼンブーレーズノーノらのセリエル音楽の理論的指導者として大きな教育的功績を与え続けた。
1928年から1931年にかけて、ウィーンの前衛音楽誌「アンブルップ」の編集長を務める。1969年8月6日、妻とともに休暇で訪れたスイス・フィスプで心筋梗塞を起こし、当地にて死去。65歳であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テオドール・アドルノ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Theodor W. Adorno 」があります。




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