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アーネスト・ヘンリー・シャクルトン(Sir Ernest Henry Shackleton、1874年2月15日 - 1922年1月5日)はアイルランド生まれの探検家である。1914年、南極を目指す航海の途上で氷塊に阻まれ座礁、約1年8か月に渉る漂流の末、生還したことで知られる。 ==経歴== アイルランドのキルデア州キルケアで出生。幼時に両親に連れられてイギリスへ移住し、ロンドン近郊のダリッジ・カレッジで学んだ。船乗りを志して16歳のときに商船に乗り組み、航海士の経験を積んで1898年には船長の資格を得る。 1902年、ロバート・スコットの第一回南極探検隊(ディスカバリー遠征)に志願し、探検船ディスカバリー号の三等航海士として採用された。南極に到達した探検隊がロス島南端のハットポイント半島に設営地を定めたのち、隊長のスコットと共に犬橇で南方を調査するメンバーに選ばれ、南極点から733kmの地点(南緯82度17分)まで進むことが出来た。しかしその帰路は食糧不足から犬橇の引き犬を全て失い人力のみで橇を引ことになった。南方への遠征チームは出発から93日目にディスカバリー号に辿り着いたが、壊血病を患い体力が衰えたシャクルトンは、スコットの判断で探検隊と別れ、補給船モーニング号に同乗してイギリスへ帰国する結果となる。 1907年、シャクルトンは個人的に寄付を募り借金をして自らの南極探検隊を組織した(ニムロド遠征)。中古のアザラシ漁船ニムロド号を探検船に仕立てた探検隊は1908年1月にニュージーランドを出発した。ロス島のロイズ岬に基地となる小屋を建てた後、越冬しつつ準備を整え10月にシャクルトンを含む4名が南極点を目指して出発。ポニーが引く橇で進み、ベアードモア氷河から南極横断山脈を越えるルートを見出し、南極高原へ史上初の到達に成功したが、食料の欠乏のため南極点まであと180kmまで迫った地点(南緯88度23分)で引き返すことを余儀なくされた。最後は飢餓で全滅寸前の危機に陥りながらも無事に帰還。この探検行で前人未踏の地点まで到達したことが評価され、帰国後ナイトを叙勲している。なおこの探検では分遣されたメンバーが南磁極への到達とエレバス山の初登頂に成功している。 ロアール・アムンセンが1911年に南極点到達を果したことから、シャクルトンは目標を南極大陸横断に切り替え、1914年にて南極に向け出航した(帝国南極横断探検隊)。南極大陸まで320kmの点で氷塊に阻まれ、身動きが取れなくなる。10ヶ月ほど氷塊に囲まれたまま漂流を続けたが、氷の圧迫でエンデュアランス号が崩壊を始めたため、船を放棄し、徒歩にて(そして、氷山が溶けてからはボートにて)氷洋上を踏破し、約500km先のエレファント島に上陸した。そこから分遣隊を率いて救命ボートで航海を行い、約1300km先のサウスジョージア島に到達(ジェイムズ・ケアード号の航海)。登山道具も満足に無い状態でさらに山脈を越えて漁業基地に到達し救助を求めた。その後貸与された救助船の損傷や接岸失敗などの困難に見舞われたものの、ついに全隊員の救出に成功した。約1年8ヶ月にわたる漂流にも関わらず、27名の隊員と共に、1人も欠けることなく生還を果している。 当初の探検目的は果たせなかったものの絶望的な状況下において隊員の希望を失わせず、かつ、冷静な判断と決断力で奇跡ともいえる全員帰還を成功させたことで、優れたリーダーとして今でも称えられている。ただしこの探検では、南極大陸の反対側に物資輸送のため派遣されたロス海支隊でも補給船が暴風で流される事故があり、こちらは陸上に取り残された隊員の中から3名の死者を出している(オーロラ号の漂流)。 1922年1月5日、自身が率いる3度目の南極探検(シャクルトン=ローウェット遠征)に向かう途上、サウスジョージア島で心臓発作にて急逝した。墓はサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島のサウスジョージア島最大の停泊地・グリトビケンにある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーネスト・シャクルトン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ernest Shackleton 」があります。 スポンサード リンク
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