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アーノルドパーマ : ミニ英和和英辞書
アーノルドパーマ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アーノルドパーマ ( リダイレクト:アーノルド・パーマー ) : ウィキペディア日本語版
アーノルド・パーマー[ちょうおん]

アーノルド・ダニエル・パーマー(''Arnold Daniel Palmer'', 1929年9月10日 - )は、アメリカペンシルベニア州ラトローブ出身のプロゴルファー
彼の名前に由来するファッションブランド「アーノルド・パーマー」を指すこともある。ウェイクフォレスト大学中退。PGAツアー通算62勝は歴代5位。
== 概要 ==
父はクラブプロ兼グリーンキーパーであり、5人兄弟の長男として1929年に誕生した。父の影響で7歳頃からゴルフを始めて、その素質を認められた。ウェイクフォレスト大学に進学し、1954年に全米アマゴルフでデビュー、そのタイトルを獲得すると間もなくプロ入りを表明した。翌1955年にツアーに参加してプロゴルファーとしてデビューした。同年にランク32位となる賞金を得た。1958年に最初のマスターズ優勝(第22回大会)、2年後の1960年に最終日の猛チャージで全米オープン唯一度の優勝(第60回大会、チェリーヒルズカントリークラブ)、翌1961年に全英オープン初優勝(第90回大会、ロイヤルバークデール)を果たした。
彼はテレビ時代の最初のスターゴルファーになり、競技スポーツとしてのゴルフを多くの人々に知らせた。熱心なファンが非常に多く、彼らの集団のことを“Arnie's Army”(アーニーズ・アーミー)と呼ばれるほどであった。
全英オープン初優勝の時は、嵐の2日目に73(1オーバー)という驚異的なスコアを出したが、これには1打のペナルティが含まれていた。バンカーの中でボールが動いたと申告して、自ら1打罰を課した。本人以外は誰も確認していない。この誠実さは、2回の歴史的ミラクルショットで報われた。第3ラウンドの16番ホール(現在の17番ホール)の第3打と、最終ラウンドの15番ホール(現在の16番ホール)の第2打であり、いずれもグリーンをとらえた難しいリカバリーショットであった。当時、米国では全英オープン離れが進みつつあった。理由は、渡航費を負担して長距離を移動するが、賞金額が少なく、賞金を獲得しても米国PGAツアーの賞金としてカウントされない、勝利してもPGAツアーの公式勝利数にカウントされない(2001年に1860年まで遡って公式勝利と認定)、同時期に行われるPGAツアーの試合を欠場しなければならない等であった。しかし、パーマーはゴルフ発祥の地である英国のゴルフ界へ貢献するため、ボビー・ジョーンズらが記録したグランドスラムに挑戦するため、1960年の第89回大会(セント・アンドルーズ)から渡英して初戦から2位の成績を収め、刻むこと(レイアップ:障害物がある場合、障害物の手前にボールを運ぶこと。例えば、グリーン周辺に障害物がある場合、グリーンを直接狙わず、グリーン手前にボールを運ぶこと)を潔しとせず、果敢にピンを狙う攻撃的プレイスタイルで英国のゴルフを変え、さらに1962年トゥルーンで全英オープンを2連覇して、全英オープンを世界の大舞台に復帰させたと評価する人もいる〔大塚和徳「世界ゴルフ見聞録」日本経済新聞社(2008)、129頁。ジョン・フェインスタイン「天国のキャディ」日本経済新聞社(2006)、114頁〕。
全米オープンでは不運が多かった。故郷に近いピッツバーグ郊外のオークモントカントリークラブ開催の1962年の第62回大会では、プロ転向間もないジャック・ニクラスとのプレイオフに敗れた。さらに翌1963年の第63回大会は、1913年フランシス・ウィメットによるアマチュア初の全米オープン制覇から50年後の記念すべき大会であり、会場も同じボストン郊外のザ・カントリークラブで開催され、3人でのプレイオフとなり、今度は老練なジュリアス・ボロスに敗れた。さらに1966年、サンフランシスコの名門オリンピッククラブ・レイクコース開催の第66回大会では歴史的な崩壊により優勝を逃した。好調だったパーマーは、最終ラウンドの前半終了時点で2位のビリー・キャスパーに7打差の首位で折り返したが、当時ベン・ホーガンの保持していた全米オープン最小スコアの更新に挑み、無理なショットを続けてスコアを崩し、72ホール終了時点でキャスパーと首位タイに並んだ。翌日の18ホールのプレイオフも前日の再現となり、2打リードして前半を終えたが、後半に逆転され、キャスパー69対パーマー73の4打差での決着。
マスターズには、74歳の2004年まで出場を続行した。これは連続50回の最多連続出場記録となっている。
また、ライバルのジャック・ニクラスと並んで全米プロゴルフ選手権37回の最多出場記録を持ち、優勝争いも何度か演じたが、メジャー大会の中で唯一優勝できなかったため、グランドスラマーとなることはできなかった。
PGAツアーで歴代5位となる62勝をあげた。引退後、ジャック・ニクラスに「刻んだことはあるか?」と問われ、パーマーは「ない。刻んでいれば、もっと勝てた」と答えたという。日本でも、中嶋常幸が「刻んだことが無い。刻み方がわからない」と発言したことがある〔2006年7月2日、日本ゴルフツアー選手権の最終日のラウンド中。NHKで生放送された。〕。
1998年ペンシルバニアのロッジにてフリーメイソンに入会〔〕。
2004年ジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領より、大統領自由勲章を授与された。
2012年9月12日にアメリカ合衆国議会により、議会名誉黄金勲章を授与された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アーノルド・パーマー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Arnold Palmer 」があります。




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