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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
アーヤーンとは、18世紀以降のオスマン帝国において、中央政府に対し半ば独立した勢力を維持した地方有力者を指す。日本語では「地方名士」「地方名望家」などと訳される。ただしオスマン帝国において狭義には、行政・軍事・宗教等における階級組織の地位や財産を保持する人びとを指し、富裕な都市民や地主などもこの範疇に入る〔稲葉光俊「地方の名望家アーヤーン」/ 柴宣弘編著『バルカンを知るための65章』明石書店 2005年 43ページ〕。 == 歴史 == === 台頭 === 皇帝スレイマン1世による度重なる外征は帝国に大きな負担をかけていたが、そこにインフレや新大陸からの銀の流入が重なり(価格革命も参照)、1580年代には急激な物価騰貴が起きて社会は混乱、政府は財政危機に陥った。その建て直しのため、16世紀末から徴税請負制(イルティザーム)が導入された。 徴税請負制の下で徴税権を競り落としたのは首都の富裕層であった。しかし彼らは地方の実情を知らなかったため、徴税権を下請けに出した。それを買い取るのは、地方で混乱を生き延びた有力者であった。こうして地方の有力者たちが実質的な徴税権を獲得していくが、彼らは名目上の徴収額と実際の徴収額の差額を集積して財をなし、政府の地方職を購入して権威を獲得し、官職と徴税権を利用して土地を集積し、在地での経済活動に投資するなどして財を蓄えていき、18世紀末には在地勢力としてその存在を顕在化させるに至った。こうした人々はアーヤーンと呼ばれた。彼らは自前の私兵軍も養い、中央政府の介入を拒む半独立の勢力となっていった。 彼らに対して中央政府は、官職を与えて懐柔し、アーヤーン同士の対立を煽って抗争させて力をそぎ、意に沿わない動きをした者を処罰・財産を没収するなどして統制を図ったものの、帝国はもはや彼らの私兵軍なくして対外戦争を行えなくなっており、その力を完全にそぐこともできなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーヤーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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