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アール・コームス(Earle Bryan Combs、1899年5月14日 - 1976年7月21日)は、1920年代 - 1930年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手。主なポジションは中堅手。ケンタッキー州ペブワース生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"The Kentucky Colonel"(ケンタッキー・カーネル)。現役時代の背番号は『1』。1920年代ヤンキースで「殺人打線」を形成したリードオフマン。 == 経歴 == 1924年にマイナーのルイビル球団からヤンキースに入団、1年目は24試合に出場し14安打、打率.400をマークし、2年目からヤンキースのセンターに定着した。2年目の1925年には200安打以上を打ち、打率.342を記録する。当時のヤンキースはベーブ・ルースをはじめ、トニー・ラゼリ、ルー・ゲーリッグ、ボブ・ミューゼルらを要しており、足の速かったコームスは、彼らが後に控える強力打線の先頭打者として活躍した。 1926年から3年続けてワールドシリーズに出場。1927年には打率.356、231安打で、23本の三塁打(現在も球団記録)のキャリア最高の打撃記録を挙げ、同年のピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも制した。 その後1932年まで、8年連続で100得点以上を挙げるなど不動のリードオフマンだった。ミラー・ハギンスは、コームスの安定して高い打撃・守備能力について、「自分のクラブにコームスが9人いたら、毎晩赤ん坊のようにぐっすり眠れるのに」と称していた。しかし1934年にセントルイスでの試合中、コームスは打球を追って外野壁に衝突し、頭蓋骨骨折の重傷を負う。結局この年は63試合に出場しただけだった。翌1935年に復帰するも、今度は外野守備で味方野手との衝突にあい、同年引退に追い込まれた。 1970年にベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1976年ケンタッキー州で77歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アール・コームス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Earle Combs 」があります。 スポンサード リンク
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