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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
イアン・ウーズナム(Ian Woosnam, 1958年3月2日 - )は、ウェールズのプロゴルファーである。1991年のマスターズ・トーナメント優勝者で、男子ゴルフの世界ランキング1位も通算「50週」保持した名選手である。ウーズナムという姓が読みづらいことから“Woosie”(ウージー)と呼ばれている。これまでにヨーロッパツアーで28勝、国際試合で通算8勝を挙げ、マスターズを含めると総計「37勝」を記録している。身長165cm、体重76kgで、プロゴルファーとしても小柄な体格だが、全盛期はツアー屈指の飛ばし屋であり、ベルンハルト・ランガーをして「あの小さな身体でボールをあんなに飛ばせるのだから、彼のスイングが理想のスイングだ」と言わしめた。また、全盛期に日本のゴルフクラブメーカーと契約し、来日してクラブフィッティングを行っていたことでも知られる。 == 概要 == 両親はウェールズ人で、イングランド領のオスウェストリー生まれ。少年時代、ウェールズとイングランドの国境に接したコースでゴルフを学んだが、その練習場は15ホールがウェールズ領に、他の3ホールはイングランド領に入っていたという。1976年にプロ入り。1982年に「エーベル・スイス・オープン」でプロ初優勝を飾る。1983年からアメリカ代表チームとヨーロッパ選抜代表チームで争われるゴルフ団体戦「ライダーカップ」のヨーロッパ選抜代表に選ばれ、以後1997年の大会まで「8回連続」出場を果たす。1987年と1990年の2度ヨーロッパツアーの賞金王(賞金ランキング1位)に輝いたが、最初の1987年はヨーロッパツアーでの年間獲得賞金額で「100万ドル」を突破した史上初の選手になった。33歳で臨んだ1991年の第55回マスターズ・トーナメントで、2位に1打差の11アンダーパー(-11, 72-66-67-72の277ストローク)でキャリア唯一のメジャー優勝を果たした。ウーズナムは3日目終了時点で-11で単独首位、最終日の4月13日は最終組でトム・ワトソンと午後1時59分(日本時間14日午前2時59分)スタートで廻った。最終日にウーズナムがスコアを伸ばせないでいると、米国のワトソンとスペインのホセ・マリア・オラサバルが追撃してきた。1組前のオラサバルは13番ホールから3連続バーディで、15番ホール終了時点で-11。ワトソンはパットが不調で出入りの激しいラウンドだったが、13番ホールで5mのパットを入れイーグル、15番ホールでも第2打をピン左2.5mにつけて、この日2つめのイーグルを奪って-11。15番ホール終了時点から17番ホール終了時点まで3人が-11に並び、最終18番ホール(パー4)で勝敗が分かれた。まず、オラサバルが18番ホールに臨んだが、ドライバーでの第1打がフェアウェイ左のバンカーに捕まり、続く7番アイアンでの第2打もグリーン手前のバンカーに捕まって、3オン2パットのボギーで-10に後退。最終組の18番ホールの第1打のドライバーショットは、ワトソンがフェアウェイ右の林に打ち込むと、ウーズナムはドローボールで攻めてフェアウェイ左の浅いラフに打ち込み、二人とも第2打はリカバリーショットとなった。ワトソンは3番アイアンで攻めてグリーン手前のバンカーに捕まったのに対し、ウーズナムの9番アイアンのショットは前方のマウンドとバンカーを越え、グリーン左に少し外れたが成功した。ワトソンの第3打はピンに絡んでグリーン奥に3オンしたが距離を残し、短いボギーパットも外して3パットでダブルボギー、-9に後退して3位タイ。ウーズナムはパターで3オンして、残り8フィートを1パットで沈めてパーの逃げ切りで勝利したが、この日4回目の1パットでのパーセーブだった。 10年後の2001年、43歳で全英オープンに20度目の挑戦を行い(ロイヤルリザム&セントアンズでの第130回大会)、久々にメジャー大会の優勝争いに絡んだ。3日目終了時点で、デビッド・デュバル、ベルンハルト・ランガー、アレクサンダー・チェイカと6アンダーで首位タイに並んだが、最終日の7月22日、ハプニングに見舞われた。最終ラウンド前の練習で、ウーズナムはこの日使うクラブを選定していたが、コースに出る際ウーズナムもキャディのマイルス・バーンもクラブセッティングの確認を怠り、バッグに規定の本数より1本多く入れた状態(ドライバーが2本で、計15本)でラウンドを開始、2番ホール(パー4)のティーグラウンドでティーショットを打つ前にそのミスに気づいたのである。このため、ウーズナムにはゴルフ規則により1番ホールのスコアに2打罰が加えられ、1番ホールのバーディがボギーとなった。最終日はデュバルが抜け出して、2位のニクラス・ファストに3打差、3位タイのウーズナムに4打差の10アンダー(274)で初優勝を飾った。試合後、「1番ホールはパー3で、アイアンでのティーショットだった。1番ホールがパー4か5だったら、ラウンド前に違反に気づいたはず」とコメントした。 2006年度のライダーカップで、ウーズナムは初めてヨーロッパ選抜チームの代表監督を務め、18.5点(ヨーロッパチーム)-9.5点(アメリカチーム)でヨーロッパを勝利に導いた。ウェールズ出身の選手がライダーカップの監督を務めたのは、大会史上3人目のことであった。50歳を迎えた2008年からは、ヨーロッパのシニアツアーでプレーしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イアン・ウーズナム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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