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イェンス・ヤコブ・ベルセリウス : ミニ英和和英辞書 | イェンス・ヤコブ・ベルセリウス
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イェンス・ヤコブ・ベルセリウス ( リダイレクト:イェンス・ベルセリウス ) : ウィキペディア日本語版 | イェンス・ベルセリウス
イェンス・ヤコブ・ベルセリウス(スウェーデン語:Jöns Jacob Berzelius、1779年8月20日 - 1848年8月7日)は、スウェーデンリンシェーピング出身の化学者、医師。 イギリスの化学者ジョン・ドルトンによる複雑な元素記法に代わり、現在でも広く用いられている元素記号をラテン名やギリシャ名に則ってアルファベットによる記法を提唱し、原子量を精密に決定したことで知られる。また、セリウム、セレン、トリウムといった新しい元素を発見。「タンパク質」や「触媒」といった化学用語を考案。近代化学の理論体系を組織化し、集大成した人物である〔久保、p.85。アントワーヌ・ラヴォアジエが建設した化学体系の拡張と完成を一生の仕事として意識して行った。〕。クロード・ルイ・ベルトレーやハンフリー・デービーら当代の科学者だけでなく、政治家クレメンス・フォン・メッテルニヒや文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとも親交があった。弟子にフリードリヒ・ヴェーラーやジェルマン・アンリ・ヘスがいる。 == 生涯 == 1779年8月20日、スウェーデンのリンシェーピング近くの教会区で生まれる。父はイェータランドの高等学校長、牧師であり、4歳のときに死別した。その後母と再婚した養父も牧師であったが、継子たちにも分け隔てなく接し、幼い息子に対して同国の博物学者カール・フォン・リンネの足跡をたどれる力をつけるように諭したといわれる〔ベルセリウス、p.3。訳者によるベルセリウス小伝。〕。1793年、リンシェーピングのギムナジウムに入学したが、昆虫や植物の採集に熱中し、自然の観察に興味をもつようになった。1797年3月、ウプサラ大学医学部に入学したが、化学実験に勤しみ、1800年にメデヴィの温泉水の分析〔以前に同大学のトルビョルン・ベリマンが行った分析結果を参考にしたものであった。〕で卒業論文を提出した。1802年にガルヴァーニ装置の電気に関する研究で医学の学位をとり、1804年にストックホルムで開業した。医業の傍ら化学の研究をするうちに、カロリンスカ医学外科学院で医学と薬学の無給助手に採用され、1807年教授に昇格した。1808年にスウェーデン王立科学アカデミーの会員となり、1810年は会長をつとめ、1818年に終身会員に任命された。プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、ロシア皇太子アレクサンドル、フランス国王ルイ・フィリップに進講した。研究に余念がなく1835年まで独身を通していたが、友人の妹との結婚に際し、国王より男爵に叙せられた。1848年にストックホルムで死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イェンス・ベルセリウス」の詳細全文を読む
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