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イエナ・アウエルシュタットの戦い(ドイツ語:Schlacht bei Jena und Auerstedt)は、ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦した。 この戦いの結果、プロイセン軍は甚大な損害を被り、その後の追撃戦で完全に壊滅、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。特にアウエルシュタットにおいては、ルイ=ニコラ・ダヴーが2倍のプロイセン軍を破っている。 == 背景 == 1805年、ナポレオンはアウステルリッツの戦いで勝利し、第三次対仏大同盟を崩壊させた。神聖ローマ帝国は解体され、フランスの影響下に置かれたライン同盟が結成、これによってフランスの覇権は中部ドイツまで及ぶ事となった。ナポレオンはライン同盟諸邦に約20万のフランス軍を駐屯させたが、これは領域を接するプロイセンに危機感を抱かせ、プロイセン国内に反ナポレオンの愛国者たちを生み出す事となった。 当初、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、フランスとの開戦に必ずしも賛成ではなかった。これは国王の消極的で優柔不断な性格もあるが、プロイセンとフランスの国力差を考慮した情勢判断の結果でもある。しかし、王妃ルイーゼ、プロイセン王子ルイ・フェルディナントといった反ナポレオンの急先鋒はさかんに王を焚き付け、ついに開戦の決意を固めさせた。 1806年7月、プロイセンはイギリス、ロシア、ザクセン公国、スウェーデンとともに第四次対仏大同盟を結成、フランスに対抗する姿勢をあらわにした。8月末、プロイセンはフランスにライン諸邦に駐屯する軍の撤収を要請した。これは事実上の宣戦布告であった。 プロイセン軍は、約15万の兵力を動員し、ライン諸邦に分散するフランス軍の各個撃破を計画した。この時、エルベ川流域でフランス軍を迎え撃ち、ロシアの援軍を待つという作戦も提示されたが、これは消極的に過ぎるとして却下された。しかし、攻勢を決定したにもかかわらず、プロイセン軍の動員は遅々として進まなかった。また、指揮権の所在が明確でないため、作戦計画はまとまらず、各軍の連携は不完全なものとなった。プロイセン軍の南下が開始されたのは、ようやく9月末の事だった。こうしたプロイセン軍の初動の遅れは、フランス軍に態勢を整える時間を与える事となった。 宣戦布告を受け取ったナポレオンだったが、当初はプロイセン軍の動きを見守っていた。9月末、敵の目標がマインツ方面への進撃と判断したナポレオンは、直ちに分散していた20万の兵力をバンベルクに結集し、逆にプロイセン野戦軍を撃破する作戦を立てた。ナポレオンが立てた作戦は以下のようなものであった。まず、モルティエの第8軍団をマインツに置いて、進撃してくるプロイセン軍の対処とし、後方連絡線を保持する。残りの全軍は、テューリンゲン近郊に存在すると見られるプロイセン軍の側面に右翼から回りこむように機動し、戦略的包囲によって敵野戦軍を一挙に撃破しようというものだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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