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イエン・チリト( / Ieng Thirith, 1932年3月10日 - 2015年8月22日)は、カンボジアの政治家。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。 クメール・ルージュの指導者の一員であると同時に、イエン・サリの妻。イエン・シリト、イエン・ティリトとも。 == 経歴 == イエン・チリトは1932年、フランスの保護国カンボジア、裁判官の娘として生まれた〔山田(2004年)、17ページ。〕。姉は、後にポル・ポトの最初の妻となるキュー・ポナリー。イエン家は王族とも親しい上流中の上流階級であった〔姉妹の父は、シハヌーク国王の祖父母の家族と親しく、のちに王女の一人と出奔した。山田(2004年)、17ページ。〕。 他のクメール・ルージュの指導者の多くと同じく高学歴で、当時のカンボジアの最高学府であるを卒業し〔山田(2004年)、18-19ページ。〕、奨学金でパリに留学してシェークスピアを研究した〔山田(2004年)、91-92ページ。〕。夫イエン・サリとは国内の学生時代に婚約し、1951年夏にパリ15区役所で結婚している〔チャンドラー(1994年)、62-63ページ。〕。 帰国後は、自らカンボジア初の英語教育校であるクメール英国高校を設立し、校長として教師生活を送った〔山田(2004年)、26ページ、201ページ。〕。しかし、1963年2月の暴動を機に左翼への弾圧が強化されると、夫イエン・サリは地下に潜り、1965年にはチリトも後を追った〔山田(2004年)、30ページ、200ページ。〕。 右派ロン・ノル政権との内戦中、1973年12月3日にカンプチア王国民族連合政府人民教育・青年相に任命される。 1976年4月14日に民主カンプチア政権が樹立されると、ポル・ポト内閣の社会問題相に就任し〔山田(2004年)、98ページ。〕、政権運営に深く関与した。このため、当政権による大量虐殺に責任を負うことになる。 2007年11月12日、夫と共にプノンペン南部の自宅で逮捕され、カンボジア特別法廷において刑事責任が問われることとなった。しかし2012年9月13日、認知症のために「訴訟能力がない」として、訴追せず身柄を釈放された。 2015年8月22日、カンボジア西部のパイリンで死去〔イエン・チリト氏死去=ポト派元最高幹部-カンボジア 時事ドットコム 2015年8月22日〕。83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イエン・チリト」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ieng Thirith 」があります。 スポンサード リンク
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