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イオニア七島連邦国()は、ギリシャ、イオニア諸島の島7つで構成された、前半はオスマン帝国が宗主権、ロシア帝国が保護権を持ち、後半はフランス帝国が支配権を持っていた、短期間存在した国家のことである。 連邦国はケルキラ島、パクシ島、レフカダ島、イタキ島、ケファロニア島、ザキントス島、ストロファデス島で構成されていた〔桜井(2005)、p.276.〕。 ==歴史== === 背景 === 1770年、オスマン帝国支配下のギリシャ、ペロポネソス半島において、ギリシャの名望家を中心とする蜂起が発生した。これはロシア帝国のエカテリーナ2世による南下政策に刺激されたもので、蜂起したギリシャ人はロシア帝国と通じ合っていた。この蜂起はオスマン帝国のアヤーン(イスラム教徒の地方豪族)に鎮圧されたが、徐々に独立の気運が高まりつつあった〔桜井(2005)、p.275.〕。 この蜂起以降、列強三国(イギリス、フランス、ロシア)によるオスマン帝国に対する活動が活発化した(東方問題)。また、オスマン帝国自体の弱体化のため、1774年にロシア・トルコ間で結ばれたキチュク・カイナルジャ条約によって、ロシア保護下ではあるがギリシャ商人の活動が活発化した。そしてフランス革命が発生したことにより、地中海東部からフランス人が駆逐されると、その利権はギリシャ人へと渡った。徐々に独立の気運が高まりつつあったギリシャにおいてイオニア諸島は共和国時代のヴェネツィア、フランス革命後のフランスの手に渡り、徐々にその係争地と化しつつあった〔。 1796年、イタリア北部を占領したナポレオンは、ヴェネツィアが領有していたイオニア諸島への関心を持ち、イオアニアのテペデレンリ・アリー・パシャの下へ使者を派遣した。この翌年、カンポ・フォルミオ条約が結ばれた事により、イオニア諸島はフランスの領有下となった〔。 このためにバルカン半島南部ではフランス、ロシア、アリー・パシャらが対立する図式が完成したが、ナポレオンはアドリア海だけでなくレヴァントまでの支配を目論んでいた。ナポレオンは1798年にエジプトへ遠征したが、これを契機としてトルコとロシアが共同してフランス攻撃を開始した。この時、アリー・パシャはフランス人部隊の協力を得てイピロスの一部とプレベザなどを奪取して勢力を拡大したが、1799年にトルコ・ロシア艦隊がイオニア諸島の占領に成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イオニア七島連邦国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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