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イクノディクタスとは、日本の元競走馬である。中央競馬で51戦ものレースをこなしながら、デビュー以来一度も故障せずに走り続け、「鉄の女」と呼ばれた。全妹に小倉3歳ステークス2着のエミノディクタスがいる。重賞4勝を含む9勝をあげ、当時の賞金女王にも輝いた。現役時代の主戦は村本善之。 * 馬齢については原則旧表記(数え)とする。 == 来歴 == イクノディクタスは、1988年夏の2歳馬セリ市にて930万円で購買された(そのとき同じセリ市にて1億円で購買されたのは、競馬版『華麗なる一族』の一員である良血馬・ダイイチルビーであった)。 しかし、3歳時に屈腱炎を発症。デビューどころか安楽死処分も検討された状況であった。そこで関係者は「骨折以外の足の故障は装蹄で治せる」という持論を持った装蹄師の福永守に相談し、彼に一時預けられた後、故障が完治し競走馬としてのデビューが可能になった〔『優駿たちの蹄跡』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉〕。 1989年7月小倉競馬場でデビューし、新馬戦、フェニックス賞を連勝。順調なスタートであったが、単枠指定馬として圧倒的人気となった小倉3歳ステークスでハギノハイタッチの9着に敗れその後も3戦も全て敗退に終わった。 翌1990年も春は桜花賞11着、優駿牝馬9着など全くいいところ無く敗れる。秋はサファイヤステークスで3着、ローズステークスで差の無い2着、エリザベス女王杯で4着とその後に期待を持たせる結果だったが、結局この年は7戦して勝ち星をあげることは出来なかった。 1991年。マイラーズカップまで3戦して全敗。ここまで14連敗と勝ち星から遠ざかっていたが、コーラルステークスで久々の勝利をあげた。この後一戦をはさんで京阪杯で初の重賞制覇をしている。その後は6連敗であったが、北九州記念と朝日チャレンジカップの2着を最高に勝ち負けには絡んでいた。この後一時休養に入り、そのままこの年を終えた。 1992年。関門橋ステークスから始動するも新潟大賞典まで6戦して全敗。エメラルドステークスで久々に勝利する。続く金鯱賞では自身2度目の重賞制覇を果たした。高松宮杯で12着と大敗するが、小倉記念でレッツゴーターキンをハナ差退け勝利。続くオールカマーではオグリキャップの持っていたレコードタイムを塗り替えると共に重賞2連勝を果たし、この後の毎日王冠ではGI優勝馬ダイタクヘリオスに喰らい付いての2着と、好走を続けていた。この後4戦したGIレースでは敗退したが、そのレース振りが評価されてこの年のJRA賞最優秀5歳以上牝馬(部門名は当時)を受賞した。 1993年。日経賞、産経大阪杯で敗れ、天皇賞(春)にも出走するが9着と敗退。しかし続く安田記念でヤマニンゼファーの2着に入り、ダイイチルビーの持っていた記録を抜き、当時の歴代賞金女王の座に着いた〔この年の秋にはシンコウラブリイに賞金女王の記録を塗り替えられている。〕。この安田記念では、イクノディクタスは14番人気だったため大万馬券となったが、陣営としても予想外の走りだったようで、主戦の村本をして「こんな走りをするとは…出てみるものですね。」とコメントするほどだった〔産業経済新聞社発行 週刊Gallop臨時増刊『週刊100名馬 イクノディクタス』より〕。続く同年の宝塚記念でもメジロマックイーンの2着に健闘し、初の賞金5億円獲得牝馬となった。この後テレビ愛知オープンで勝利するが、その後はまたも勝ちきれないレースが続き、富士ステークスを最後に現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イクノディクタス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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