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イサドィ諸公会議()は、1217年にイサドィで開かれたルーシの諸公会議(ru)である。 諸公会議はグレプ、コンスタンチンの兄弟によって開催された。リャザン公国とその分領地に関する継承権の紛糾を解消する名目で開かれたが、結果的には、グレプ、コンスタンチン兄弟によって、リャザン公国の6人の公(クニャージ)が謀殺されるという形で終了した。 ==前史== イサドィ諸公会議につながる、リャザン公、プロンスク公(リャザン公国に属するプロンスク公国の公。)によるリャザン公国の相続権をめぐる争いは、1177年にリャザン大公グレプ(主催者のグレプ兄弟の祖父にあたる)が、ウラジーミルの獄中で死亡したことに端を発する。リャザン公国の統治者候補としては、グレプの5人の子が残され、そのうちのロマン(ru)がリャザン公位について、他の兄弟と共に共同統治を行うことになった。また、自国に対するウラジーミル大公国の影響力の強化に抵抗するために、チェルニゴフ公家であるオレグ家(ru)との同盟路線を採った。しかし1207年にウラジーミル大公フセヴォロドとオレグ家との対立が表面化し、その際にリャザンはフセヴォロドによって焼き討ちをかけられた。ロマンと弟のスヴャトスラフ(ru)、またイングヴァリ(ru)、ユーリー兄弟(ロマンの甥。イーゴリの子)らはフセヴォロドに捕縛された。 1210年、ウラジーミル大公フセヴォロドとチェルニゴフ公フセヴォロド(ru)は和平条約を結んだ。ウラジーミル大公フセヴォロドの子ユーリーと、チェルニゴフ公フセヴォロドの娘アガフィヤとの間に結ばれた婚儀はこの和平を機とするものである。ウラジーミル大公フセヴォロドの死後に大公位を継いだユーリーは、1212年に、捕虜となっていたリャザンの諸公を解放した。 リャザンの諸公の解放からイサドィ諸公会議の開催されるまでの、1212年から1217年にかけてのリャザン公位の継承者に関しては、歴史家によって見解が異なっている。史料においては、「(1212年に)ユーリーはリャザンの諸公を解放し、(捕縛される前の時点のリャザン公)ロマンは死去した(ロマンの死亡年は記されていない)」、という記述がなされている。V.タチシチェフ(ru)は、ロマンを1216年に病死したとし、この死が翌年のイサドィ諸公会議のきっかけとなったとみなしている〔Татищев В. Л. История Российская 〕。L.ヴォイトヴィチは、同じくロマンの死を1216年とするが、ロマンはいまだウラジーミルにおいて俘虜の身であったとみなしている〔Войтович Л.КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ 〕。一方、V.ルィバコフ等は、解放から1217年までの間、別のロマンがリャザン公位にあったとみなしている〔Рыжов К. В.Все монархи мира. Россия. 600 кратких жизнеописаний . Москва, 1999 г.〕。イサドィ諸公会議の主催者はグレプであるが、年代記(レートピシ)上には、グレプをこの時のリャザン公と記す箇所はない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イサドィ諸公会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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