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イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン : ミニ英和和英辞書
イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン : ウィキペディア日本語版
イサベル・フェルナンダ・デ・ボルボン

イサベル・フェルナンダ・フランシスカ・ホセフィーナ・デ・ボルボン・イ・ボルボン=ドス・シシリアスIsabel Fernanda Francisca Josefina de Borbón y Borbón-Dos Sicilias, 1821年5月18日 アランフエス - 1897年5月8日 パリ)は、スペインの王族、スペイン王女(Infanta de España)イサベル2世女王の従姉、義姉。
スペイン王フェルナンド7世の末弟であるカディス公フランシスコ・デ・パウラと、その妻で両シチリアフランチェスコ1世の娘であるルイサ・カルロータの間の第2子、長女として生まれた。パリのオワゾー修道院(Couvent des Oiseaux)の女子寮に預けられていたが、16歳の時にポーランド人亡命貴族で馬術教師のイグナツィ・グロフスキ伯爵(''Ignacy Wenzel Gurowski'', 1812年 - 1887年)とブリュッセル駆け落ちし、スキャンダルを引き起こした。2人は1841年6月26日、ドーヴァーにおいて結婚し、間に8人の子女をもうけた。
1846年にイサベル・フェルナンダの弟フランシスコ・デ・アシースが従妹の女王イサベル2世と結婚すると、ベルギーの貴族社会はイサベル・フェルナンダを無視することはできなくなり、宮廷社交界へ迎えられた。しかし王女が見境なく様々な場に出向いたことで、逆にゴシップの種をまく結果となった。1854年、夫や子供たちとともにスペインへの帰国を許された。次男のフェルナンド(1848年 - 1875年)は初代ボンダー・レアル侯爵(''I marqués de Bondad Real'')に叙せられたが、未婚で死去したため1代で断絶した。
== 子女 ==
夫グロフスキ伯爵との間に5男3女の8人の子女をもうけた(姓はポーランド語名で、名前はスペイン語名で記す)。
*マリア・ルイサ・グロフスカ(1842年 - 1877年) - 1865年、Vicente Bertran Derret de Lisと結婚
*カルロス・グロフスキ(1846年)
*マリア・イサベル・グロフスカ(1847年 - 1925年) - 1870年、Charles Allen-Perkinsと結婚
*フェルナンド・グロフスキ(1848年 - 1875年) - 初代ボンダー・レアル侯爵
*カルロス・グロフスキ(1854年 - 1856年)
*アウグスト・グロフスキ(1855年)
*ルイス・グロフスキ(1856年)
*マリア・クリスティーナ・グロフスカ(1860年 - 1901年) - 1876年、第2代トランコソ子爵バルトロメウ・ヒラルデスと結婚

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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