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イサーク・ティチング : ミニ英和和英辞書
イサーク・ティチング[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イサーク・ティチング : ウィキペディア日本語版
イサーク・ティチング[ちょうおん]
イサーク・ティチング(イサーク・チチング、イサーク・ティツィングとも表記される。Isaac Titsingh。1745年1月10日1812年2月2日)は、オランダ外科医学者、在日オランダ商館長(カピタン)、駐オランダ大使アムステルダム出身。
ティチングは、東アジアで長く経験を積み、オランダ東インド会社の最高位職を歴任した。江戸時代中期の1779年から1784年の間3度にわたりオランダ商館長として日本に滞在し、1785年には、ベンガルのチンスラでオランダ東インド会社総督に就任した。との貿易に関心を寄せたティチングは、1795年、実質的なオランダ大使として乾隆帝の治世60年記念式典に列席した。
== 経歴 ==

===日本滞在期間 1779年 - 1784年===

ティチングは日本のオランダ商館長(カピタン)として1779年から1780年1781年から1783年、そして1784年に派遣された。任期中、日本のオランダ東インド会社商館長の重要性は幕府が推し進める鎖国政策により高まった。以前は任期が終了するまではキリスト教の棄教・改宗を余儀なくされるか、日本に帰化するか、死刑によって日本から離れるかしかなかった。鎖国下の日本での唯一の例外が長崎にある出島のオランダ商館であった。オランダ商館はこの複雑な背景の中で巧みに交易を進めることによって、日本がヨーロッパと唯一交易や科学知識を交換するパイプ役を担った。
一方、日本の機密を、11代将軍徳川家斉岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著「ベンガル航海記」に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある〔『島津重豪』1980年 芳則正著 ㈱吉川弘文館発行〕。
オランダ商館長は名目上、一年に一度の江戸参府を命じられ、江戸にいる間は日本の大名と同じ立場であった。ティチングは2度の江戸参府を行い、10代将軍徳川家治と謁見した。また江戸では蘭学者中川淳庵桂川甫周朽木昌綱ら)とも積極的に交流した。ティチングは、日本の社会・文化・風俗に深い関心を寄せ、蘭学者らと頻繁に文通を行うとともに、後に日本に関する著作を残した。特にこの頃の田沼時代の政治・社会情勢や、大岡忠光などの人物像を書き記したことは特筆に価する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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