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イジャスラフ・スヴャトポルコヴィチ : ミニ英和和英辞書
イジャスラフ・スヴャトポルコヴィチ[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

イジャスラフ・スヴャトポルコヴィチ : ウィキペディア日本語版
イジャスラフ・スヴャトポルコヴィチ[らふ]
イジャスラフ・スヴャトポルコヴィチ(、? - 1127年12月23日)はキエフ大公スヴャトポルクの年少の子である。母はスヴャトポルクの2人目の妻・エレナ(ポロヴェツ族のハン・トゥゴルカンの娘)。
==生涯==
おそらく出生地はキエフであるが〔Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод.〕、その生年は不明である。また、おそらくトゥーロフ公国領内のいずれかの地を、分領地として領有していたと考えられる。L.ヴォイトヴィチ(uk)の説によれば、その地はクレツク公国であったとされ、また兄のトゥーロフ公ブリャチスラフの死後にトゥーロフを継承したとされる〔Войтович Л. Ізяславичі. Турово-пінські князі. Четвертинські. Сокольські // Князівські династії Східної Європи.〕。
イジャスラフに関する年代記上の言及は1度きりである。すなわち、『ラヴレンチー年代記(ru)』、『ヴォスクレセンスク年代記(ru)』が共に、その死を1127年12月23日と記録した箇所のみである〔Лаврентиевская летопись // ПСРЛ. — Изд. 2. — Л., 1926. — Т. 1. - Стб. 299.〕〔Воскресенская летопись // ПСРЛ. — СПб., 1856. — Т. 7. 〕。妻子に関してもまた不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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