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イスラーム・ダアワ党(,''Ḥizb Al-Daʿwa Al-Islāmiyya''〉(以下、ダアワ党〉は、イラクの政党である。シーア派政党で政党連合・法治国家連合の主体となっている。2005年の国民議会選挙以来、与党の地位にある。書記長は前首相のヌーリー・マーリキーが務め、現首相ハイダル・アル=アバーディもダアワ党所属である。イラン・イラク戦争中はイラン革命とルーホッラー・ホメイニーを支援し、イスラム共和制に対する考えは異なってきているものの、現在もイラン政府から財政的支援を受けている〔Sawt al-Iraq, writing in Arabic , ''Informed Comment'', 2007年05月14日〕。 ==歴史== ダアワ党は1957年に〔Dagher, Sam, "Ex-Hussein Officials and Others Go on Trial ", ''The New York Times'', 2008年12月29日〕、ムハンマド・サーディク・アル=カームーシーを中心とする複数のシーア派指導者によって結党された。その中にはムハンマド・サーリフ・アル=アディーブ、アブドゥッサーヒブ・ドゥハイル、サイイド・ムハンマド・マフデイー・アル=ハキーム、サイイド・ムハンマド・パーキル・アル=ハキーム、ターリブ・アッ=リファーイーなどが含まれる。結党の目的は、イスラーム的価値や倫理観・政治意識の形成を促進し、世俗主義と闘い、イラクにイスラム国家を樹立することであった。当時は世俗的なアラブナショナリズムや社会主義的な考え方が支配的であった。指導的なメンバーとして台頭したムハンマド・バーキル・アッ=サドルは指導的な哲学者・神学者であり、政治理論家としても広く認識されていた。ウィラヤート・アル=ウンマ〈共同体による統治〉を基本とした党と政治思想の礎を形成した。レバノンにおいても、ナジャフで学びサドルの考えを支持する聖職者によって、同名の党が結党された。 1970年代に入り、シーア派ウラマーや若者の間で支持が広まり、党の基盤が強化された。彼らはイラク政府の弾圧に反発し、たびたびに武装蜂起を起こしていた。当時のイラク政府はバアス党政権の世俗的志向やシーア派の政治問題化による体制の不安定化への恐れからシーア派の政治運動を弾圧していた。1970年代、イラク政府はシーア派の新聞「リサーラト・アル=イスラーム」や複数の教育機関を閉鎖した。また、シーア派の法学者養成機関であるハウザの学生に兵役に従事することを義務づける法律を制定した。1972年以降、バアス党政権は主にダアワ党員を標的にして逮捕・収監していった。1973年にはバグダード支部指導者とされた数名が処刑された。1974年・1975年にはバアス党政権の革命裁判所で多くのダアワ党員に死刑判決が出された。〔Aziz, "The Role of Muhammad Baqir as-Sadr," p. 212.〕 1970年代を通じて抑圧政策を受けながらも、1977年2月のサファル蜂起を皮切りに大規模な抵抗運動が展開された。当時、後のイランの精神的指導者となるシーア派法学者ホメイニーがイラクにある聖地・ナジャフに亡命しており、相互に影響し合っていた。1980年3月31日にバアス党政権のイラク革命指導評議会によってダアワ党は禁止され、新旧問わず党や関係機関のメンバーや協力者を死刑とする法律が制定された。指導的なメンバーであったサドルを含む多くの人が欠席裁判で死刑判決を受け処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イスラーム・ダアワ党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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