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イソノルーブルとは日本の競走馬(サラブレッド)である。主戦騎手は五十嵐忠男→松永幹夫。 == 競走馬時代 == 2歳(現在の1歳)時にJRAが500万円で購入した抽せん馬で、そのためJRAでデビューできる保証があった。1990年9月8日の中京競馬第2競走新馬戦(芝1,000m)でデビュー、58秒4の3歳(現2歳)レコードタイムをマークし逃げ切った。続く3歳抽せん馬特別(11月17日京都競馬場第9競走・ダート1,400m)で2馬身2分の1の差をつけて勝利した。3戦目はラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス(現在ではレースの意義としては阪神ジュベナイルフィリーズ)に出走(12月22日・京都競馬第11競走・芝1,600m)、ここで札幌3歳ステークス勝ち馬のスカーレットブーケに3馬身2分の1差を付け、1分35秒0のタイムで函館3歳ステークスの勝ち馬ミルフォードスルー、小倉3歳ステークスの勝ち馬テイエムリズムらを破った。 明け4歳(現3歳)は1991年2月3日のエルフィンステークスから始動、ここでも逃げ切って勝利した(2着に2馬身2分の1)。レース後、それまで乗っていた五十嵐が清水調教師と騎乗法を巡り確執となり、若手の松永幹夫へ騎手変更となった。松永との初コンビとなったのは3月17日の4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー)だった。前年秋から阪神競馬場が改修工事を行なっていたため、この年は中京競馬場の芝1,200mで行なわれ、ここでも終始逃げ、2着に3馬身2分の1を付けて優勝した。 この年の桜花賞はイソノルーブルに加えクイーンカップを制したスカーレットブーケ、牡馬相手のシンザン記念を勝っていたミルフォードスルー、さらに未対戦組からはペガサスステークス(現アーリントンカップ)で牡馬に勝利したノーザンドライバー(前年には牡馬相手にデイリー杯3歳ステークスを勝っている)、無敗でチューリップ賞を勝ち上がったシスタートウショウという屈強なライバルが揃っており、桜花賞前は本馬を合わせ5強牝馬と呼ばれていた。4月7日に京都競馬場で行なわれた桜花賞でイソノルーブルは単勝2.8倍の1番人気に支持されたが、他の4頭も単勝10倍以内につけており混戦が予想された。 しかしスタート直前にイソノルーブルの落鉄が判明、装蹄師は付け直そうと試みたが、元々気性の激しい本馬は十数分間蹄鉄を付けるのを拒絶し、スターターがテレビの競馬中継枠にレースを収めるために蹄鉄を付けないままに発走。この結果、スタートダッシュに失敗し道中も折り合いを欠きシスタートウショウの5着に敗れた。蹄鉄未装着をファンに報告しないままで走らせたJRAに対してマスコミがこぞって批判し、桜花賞翌日からファンによる抗議の電話が殺到した。事態を重く見たJRAは落鉄した場合はそのまま走らせることもあり、その際はファンに放送で知らせることや、馬場内の待機所につなぎ馬房を設置する案を発表した(詳細についてはイソノルーブル落鉄事件を参照)。なお、この騒動によってイソノルーブルは裸足のシンデレラという二つ名で呼ばれるようになった。 続く優駿牝馬(5月19日・東京競馬場)では、本命馬は桜花賞優勝馬シスタートウショウに代わった。イソノルーブルは逃げ馬にとって不利な大外20番枠ということもあり4番人気に落ちていた。だが関係者はパニックにならないようメンコを二重にし音を遮断する、レース直前までブリンカーを着用するなど工夫を施した。加えて後続のプレッシャーが弱かったせいか前半1,000mが61秒7とスローペースになったのも幸いし、直線に入っても逃げ脚は衰えず、追いこんだシスタートウショウをハナ差退けて優勝した。 その後状態が整わないことから前哨戦を使わず11月10日のエリザベス女王杯にぶっつけで出走したが、先頭に立つ事も出来ずリンデンリリーの16着に終わり、さらにレース後に故障が判明。競走馬生活を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イソノルーブル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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