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イタリアのアルバニア侵攻(イタリアのアルバニアしんこう、英語:Italian invasion of Albania)とは、1939年4月7日から4月12日にかけて行われた戦いで、数日間の戦闘の後にアルバニアは降伏してイタリア王国の保護領となった。 敗北に伴いアルバニア国王ゾグー1世は亡命し、新たにイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がアルバニア王として戴冠した事でゾグー家からサヴォイア家に王位が移った。 ==背景== イタリア統一運動より長らく、アルバニア地方はイタリアにとっての地政学上の戦略的要地で有り続けた。主な理由としてアルバニアがアドリア海の沿岸部に位置している事が挙げられ、海軍の専門家達は特にヴロラ湾の重要性を説いていた。加えてアルバニアはバルカン半島に対する橋頭堡にもなりうる場所でもあった。従って幾度もイタリア王国はアルバニアへの干渉を試みている。 第一次世界大戦前、イタリア王国はオーストリア=ハンガリー帝国と共に協力してアルバニア地方がオスマン帝国の支配下から逃れる事に助力した。続く第一次世界大戦では戦後中部アルバニアをイタリアへ併合する事を参戦条件とし、英仏が承諾した事で参戦、オーストリア・ハンガリー軍との戦いに平行して南アルバニアの占領に成功したが、戦後ギリシャがイタリアのみが利益を得る事は許さず、南部アルバニアを要求したために、アルバニアは消滅の危機に晒される。このため英仏は約束を反故として、アルバニアを独立国として認める事になった。イタリアはアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン大統領の民族自決論に基づく圧力やアルバニア政府の非難などを受け、1920年に軍を撤退させざるを得なくなった。それから暫くアルバニア問題は過去の事になっていたが、ベニート・ムッソリーニのファシスト党が政権を奪取すると再びアルバニアへの干渉を再開した。 イタリアは独立達成後、政治的混乱が続いていたアルバニア共和国で独裁色を深めつつあったアフメト・ベイ・ゾグー大統領に接近し、経済面での援助を行い始めた。アルバニア住民は「アルバニア人」としての民族意識が薄く、国民意識形成の為に強力な中央集権政策を進めるゾグーとしても、強硬路線を続ける為には大国の後ろ盾が必要であった。かくして両者の友好関係が築かれる事になり、次第に武器や弾薬、燃料といった重要物資などの援助も受けるなど依存を深め、1930年代には完全にアルバニアはイタリアの経済植民地と化してしまった。予定通り事を進めたイタリアではあったが、ゾグーは最後の一線であるアルバニアの主権喪失だけは頑なに拒み続け、1934年には隣国ユーゴスラビアと外交を樹立(外交権は国家の主権の一つ)し、ムッソリーニを激怒させている。 ムッソリーニはイタリア王家の慎重論や国際世論の批判などから軍事行使は避けていたが、1939年にアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがチェコスロバキアを軍事併合したのを目の当たりにすると、遂に占領を決断する。1939年3月25日、ティラナのゾグー(王政移行によりアルバニア王ゾグー1世と名乗っていた)に最後通牒が突きつけられた。その内容はアルバニアの主権を譲ればゾグーとその家族の生活は保障するとするもので、ゾグーがこれを拒絶した事でイタリアはアルバニアに宣戦布告した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリアのアルバニア侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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