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イタリアのエジプト侵攻(イタリアのエジプトしんこう)とは、第二次世界大戦の北アフリカ戦線においてイタリア王国(以下「イタリア」と記す。)がイギリス、イギリス連邦及び自由フランスに対しとった攻勢である。 この侵攻における当初の目標はスエズ運河の制圧だった。イタリア軍がイタリア領リビア(以下「リビア」と記す。)からスエズに到達するためには、エジプト王国(以下「エジプト」と記す。)北部を通過する必要があった。何度か攻撃は延期され、さらに攻勢の規模は当初よりも縮小された。 最終的に目標はエジプトへの侵攻と、その前面の敵部隊に対し攻撃を行なうことになった〔。 イタリア軍はこの攻勢で約エジプト領内へ侵攻した一方、イギリス軍の遅滞作戦部隊とは接触したものの、その主力部隊との本格的な交戦の機会はなかった。遅滞作戦は第7機甲師団 中の1個旅団強の部隊(第7支援群 )がこれにあたった。第7機甲師団及びインド第4歩兵師団の残りの部隊から成るイギリス軍の主力は、イタリア軍が侵入した地点から約離れたマルサ・マトルー ( ) に設定された主防衛陣地へ配置された。 == 背景 == 1940年6月10日、イタリアはナチス・ドイツ側について、イギリス、フランスに対し宣戦布告した〔Playfair, p. 109〕〔『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.9-10.〕。これに対し、6月13日、エジプトのサブリ内閣はイタリアと国交を断絶し、中立を宣言した〔Playfair, p. 121〕〔鳥井 (1993)、p.418〕。1939年9月の段階で、エジプト政府はドイツに対して国交を断絶していた〔〔Playfair, p. 54〕。 イギリスは1936年にアングロエジプト(イギリス・エジプト)条約を結んでいたものの〔岩永訳、ヒッティ (1983)、p.779〕、条約の規定によるスエズ運河地帯以外からの撤兵は進んでいなかった〔鳥井 (1993)、p.415〕。また、この条約には「締結国の一方が戦争に突入した場合には、他方はこれを援助する。」と規定されていた〔。 イタリアが参戦した時点でリビアにはイタリア軍の第5軍及び第10軍の2個軍が駐留していた。このうち、第5軍はトリポリタニアを管轄しチュニジアのフランス軍に対応していた。一方、第10軍はキレナイカを管轄し、エジプトのイギリス軍と対峙していた。この2個軍の状況は、宣戦布告時点には9個師団で構成されていた第5軍の方が大きく、第10軍は5個師団で構成されていた。フランスが降伏した後、第10軍を増強するため、第5軍から師団及び軍需物資の移動が行なわれた。エジプト侵攻時点では、第10軍は10個師団、第5軍は4個師団で構成されていた。しかしながら、キレナイカの多くのイタリア軍は輸送能力に問題を抱え、さらに将校であっても十分な訓練を受けておらず、支援部隊の状況も弱体化していた。砲兵部隊と戦車部隊はリビアのイタリア陸軍 ( ) の作戦参加部隊中では最も士気が高かった。けれどもその装備していた火砲の多くは小口径で旧式の威力が低いものだった。また、その戦車部隊の装備は数百輌のL3軽戦車だった。このL3軽戦車は、2人乗りで機関銃を装備したいわゆる豆戦車だった。侵攻の直前にようやく70輌のM11/39中戦車が到着した〔Macksey, p. 25〕。 侵攻開始以前から、北アフリカのイタリア軍の計画は順調に進んでおらず、6月12日には既に63名が捕虜となっていた。 6月17日には、第6歩兵師団司令部をもとに西方砂漠軍 (WDF) が組織された。西方砂漠軍はキレナイカのイタリア軍に対応する全ての部隊をもって、リチャード・オコナー中将が指揮をとることとなった。オコナーは司令官に就任するにあたり中将に昇任したもので〔Mead (2007), p. 331〕、航空機、戦車及び火砲に支援された10,000名の将兵がその指揮下となった。オコナーに与えられた任務は、国境地帯で積極的に哨戒を行い活発な戦闘を行なうことであった。彼は砂漠の無人地帯を支配するために、第7機甲師団の戦車、歩兵及び砲兵を組み合わせたジョック戦列とよばれる部隊を編成した〔。この部隊は小規模ながら、よく訓練された正規部隊で、国境地帯のイタリア軍輸送部隊や防御を固めた防衛拠点を急襲した〔Macksey, p. 26〕。イタリア宣戦布告後の1週間の内に、イギリス第11軽騎兵隊によりリビア領内のフォート・カップツッオが占領された〔佐藤訳、チャーチル (2001)、p.250〕。さらに、イギリス軍はバルディア ( ) の東方で待ち伏せを行い、イタリア第10軍工兵司令官ラストゥッチ将軍を捕虜にした。 6月28日、イタリア北アフリカ軍総司令官、リビア総督イタロ・バルボ空軍元帥がトブルク ()の飛行場への着陸時に味方の誤射により死亡した〔Playfair (2004), p. 113〕〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.11〕。彼は同世代の将軍たちに比べ戦争における近代的技術の効果をより深く理解していたものとみられていた。また、彼はイタリア軍の北アフリカにおける成功は敵の意表をつく迅速な攻撃しかないものとみていた。バルボはイタリアの宣戦布告前にムッソリーニに対し彼の思っている問題点を、こう述べていた。「私が問題にしているのは将兵の数ではなく、その装備している兵器であり…その数は不足し、火砲は非常に旧式で対戦車及び対空兵器として使えず…これら移動と戦闘に必要な兵器を供給できないならば、何千名の将兵を送り込んだとしても無駄なことであります。」〔Macksey, p. 38〕そして、彼は千台のトラック、百台の給水車ともっと多くの中戦車及び対戦車砲を要求していた。これらは、イタリアでは不足しており、なかには製造すらできないものもあった。この彼の要求に対し、ローマの参謀総長ピエトロ・バドリオは簡単に約束するとの返事を送った。これについてバドリオは「70輌もの中戦車があれば、戦況を支配することができるだろう。」と考えていた。バルボは死ぬ前に、エジプト侵攻を7月15日として準備を進めていた〔Macksey, p. 28〕。 イタリアの頭領ベニート・ムッソリーニは死亡したバルボの後任にロドルフォ・グラツィアーニ元帥を総司令官、総督とした。ムッソリーニは彼に対し、8月8日にはエジプトへの侵攻を開始するよう命令した。これは、グラッツィアーニが抱えることとなった不可能なことのうちのひとつであった〔。彼はムッソリーニに対し、第10軍の侵攻作戦の準備が整っておらず、さらにこの状態では、エジプト侵攻の成功は無理であると訴えた。けれども、ムッソリーニは彼に対しなんとしても攻撃を開始するよう命令した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタリアのエジプト侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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