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イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino, 1923年10月15日 - 1985年9月19日)は、イタリアの小説家、SF作家、幻想文学作家、児童文学作家、文学者、評論家。20世紀イタリアの国民的作家とされ、多彩な作風で「文学の魔術師」とも呼ばれる。 == 経歴 == キューバのハバナ近くの村で農学者の父と植物学者の母の間に生まれる。2歳の時に両親とともにイタリアに戻り、20歳までサンレーモで過す。トリノ大学農学部に入学。1943年のムッソリーニ失脚に伴い1945年のイタリア解放に至るまで、弟と一緒にパルチザンに参加し、ガリバルディ旅団に属した。 戦後はトリノ大学文学部に編入して卒業し、エイナウディ社編集部に入った。またイタリア共産党員としても活動し、機関誌『ウニタ』の編集局員も勤めたが、ハンガリー動乱などの社会的動向の影響で1956年に脱党した。 戦後、1945年に書いた短編小説が、カルヴィーノの2人の父と言われるパヴェーゼ、ヴィットリーニの目に止まり、雑誌『アレトゥーザ』『ポリテークニコ』に掲載されて作家デビュー。1947年にパルチザンでの体験を元にした長編『くもの巣の小道』を発表し、ネオレアリズモ文学の傑作と評される。その後、1952年の『まっぷたつの子爵』〔若き子爵メダルドはトルコ人との戦争に出かけ、無謀にも敵の大砲の前に身をさらしてしまい、まっぷたつに吹き飛ばされる。奇跡的に故郷に帰るが、半身は極端な悪、極端な善になっていた…。〕、続いて『木のぼり男爵』〔意地の悪い姉バッティスタに焼いたカタツムリ団子の上に爪楊枝で串刺しにされた生のカタツムリの頭が飾られている食事を出され拒否。12歳のコジモは死ぬまで樹上生活を続ける。〕『不在の騎士』〔シャルルマーニュ大帝の軍に参加したアジルールフォという白銀の鎧を身に着けた騎士が登場する。実は鎧の中には人は入ってなくて、空っぽ。「不在」の騎士だった。〕という寓話的でファンタスティックな要素を持つ作品を発表。アンチ・ネオリアリズモ作品として注目を集め、この3作は1960年に『我々の祖先』(''Il nostriantenati'')と題した一巻としてまとめられた。その後も、科学的知見と空想力を駆使した『レ・コスミコミケ』、『柔らかい月』や、メタフィクションの手法による『冬の夜ひとりの旅人が』、マルコ・ポーロを語り手に架空の都市を描いてゆく『見えない都市』など、時に実験的な手法も取り入れた作品を主に発表するようになる。 1954-56年にかけては、「グリム童話集」に匹敵するものをという出版社の依頼で、イタリア全土から採集した民話をまとめた『イタリア民話集』の編纂も手掛けた。類型を整理した200編の民話を地域別にまとめ、また方言からの書き起こしなどもおこなった労作で、「「ピノッキオ」以来、イタリアに登場した子ども向けの本としてはもっともうつくしい作品〔和田忠彦訳『魔法の庭』文庫版解説〕」(ナタリア・ギンズブルグ)と評された。 1959年にはヴィットリーニとともに雑誌『メナボー』を創刊、ヴィットリーニの死とともに1967年に終刊。 1962年にはオムニバス映画「ボッカチオ'70」の第一話『レンツォとルチアーナ』の合同脚本に一部参加する。1970年にはアリオスト『オルランド狂乱』の現代向け編集版を、アルフレード・ジュリアーノによる『エルサレム解放』と同時刊行。 1976年には、国際文化交流基金の使節として来日し、その時の印象を記したエッセイは『砂のコレクション』の第一部に収められている。またこの時に、翻訳者の河島英昭、米川良夫、脇功らとも交流した。 60年代末からパリに「隠者として」居住し、晩年の5年間はローマに住んだ。1985年に脳卒中でシエナの病院で死去。この時はコッシガ大統領も病院へ弔問に訪れたという。未完に終わった文学論『カルヴィーノの文学講義』は死後1988年に刊行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イタロ・カルヴィーノ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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