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イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる。 == 生涯 == イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人〔『哲学の歴史』86頁〕の四男として生まれた〔『哲学の歴史』81頁。〕。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った〔しかし、カントは、成人後はけっして敬虔主義の信者ではなく、定期的に教会にかようことはしなかった。〕〔『哲学の歴史』 86-87頁〕。 1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校に進んだ。1740年にはケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学をこころざしたが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。 1746年、父の死去にともない大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究ではクヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また、学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。卒業後の7年間はカントにとってはくるしい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた〔『哲学の歴史』92頁〕。 1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社が倒産したため〔極少数のみが公刊された〔1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせ「カント・ラプラスの星雲説」といわれる。〕。4月、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、6月12日、これによりマギスターの学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議をおこない、冬学期より同大学の私講師〔『哲学の歴史』93頁〕として職業的哲学者の生活に入る。 1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た員外教授の地位を得るため、それに必要な2回の公開討議の第1回目の素材として『物理的単子論』をあらわす。4月12日に第1回目の公開討議がおこなわれるが、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を直前にひかえ、欠員補充をしない方針を打ち出したため、員外教授就任の話は白紙となる。1764年、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたがカントはこれを固辞。また、1769年にエルランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいかそれとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これらも断っている〔。 1764年、『美と崇高との感情性に関する観察』出版。 1766年、『視霊者の夢』を出版〔エマヌエル・スヴェーデンボリ(またはスウェーデンボルイ、英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象については、それが存在するのか自分は判断できないとして、読者に判断を委ねている。〕〔須田朗『視霊者の夢のカント』(哲学会誌17、1982)pp.1‐20 〕。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている〔K・ペーリツ編、甲斐実道、斎藤義一訳、『カントの形而上学講義』(三修社、1979)pp222-227〕。 :「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スウェーデンボルクの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スウェーデンボルクが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」 他にいくつかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後、カントは引退までこの職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)をあらわす〔『感性界と叡智界の形式と原理について』と訳されることもある。〕〔『哲学の歴史』94頁〕。前批判期のもっとも重要な著作の一つで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。 大学教授としてのカントは、哲学のみならず、地理学、自然学、人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想のために同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。特にジョージ・バークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また、『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して誤解を解こうと努めた。 カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを総称し「三批判書」と呼ぶ。 カントは哲学的論争の渦中にいたがその学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかし、プロイセン王立ベルリン・アカデミーにカントは招聘されなかった。 カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。 カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ、『単なる理性の限界内における宗教』をあらわしたが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また、学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮してこの発禁処分を受け入れた。 1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性認知症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの、著作としてまとめられることは遂になかった〔池内紀の『世の中にひとこと』(NTT出版)の「どうか私を子供と思ってください」には七十五歳から老いを感じたカントが手元にメモ用紙を用意していて、人と会うと、名前と用件を書いてもらい、一人になると、じっとメモを見つめていたということが書いてある。しかし、やがてそれもできなくなる。人の識別がつかなくなっていったからである、という。「日本人学者によるカントの伝記が、ほとんどこのことに触れていないのはどうしてだろう?」ともいう。〕。彼は最期に砂糖水で薄めたワインを口にし、「これでよい」(Es ist gut.) 〔カントの最期の言葉については「おいしい」と翻訳すべきとする解釈もある。石川文康 『カント入門』 ちくま新書・筑摩書房、1995年5月。ISBN 978-4-480-05629-0〕と言って息を引き取ったという。当時のドイツの哲学者は論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって〔真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという。〕大学葬がおこなわれ、市の墓地に葬られた。その墓は現在もカリーニングラードに所在し、墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」(『実践理性批判』の結びより)と刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イマヌエル・カント」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Immanuel Kant 」があります。 スポンサード リンク
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