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イブヌル・アラビー : ミニ英和和英辞書
イブヌル・アラビー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イブヌル・アラビー ( リダイレクト:イブン・アラビー ) : ウィキペディア日本語版
イブン・アラビー[ちょうおん]

イブン・アラビー( Ibn al-ʿArabī, Muḥī al-Dīn Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn ʿAlī ibn Muḥammad ibn al-ʿArabī al-Ḥātimī aṭ-Ṭāʾī 生没年 1165年7月28日 - 1240年11月10日)は、中世イスラーム思想家存在一性論完全人間論を唱えてイスラーム神秘主義スーフィズム)の確立に寄与し、後世に影響を与えた。
==生涯==
イスラーム教徒セビリア王国の支配下にあったアンダルシアムルシアアラブ系の名門に生まれる。12世紀後半はセビリアの統治者であったムワッヒド朝アブー・ヤアクーブ・ユースフ1世(在位:1163年 - 1184年)の治世であり、ユースフ1世は文化を重んじていたため宮廷にはイブン・ルシュド(アヴェロエス)やイブン・トゥファイルなどが集い、セビリアは当時を代表する文化都市のひとつであった。
父アリーはイブン・ルシュドと親しく、後年主著のひとつ『マッカ啓示』での記述によるとアラビーがイブン・ルシュドと面会したのは15〜16歳の時であったといい、老齢であったイブン・ルシュドはアラビーの洞察力に驚いたという。その後もイブン・ルシュドらとの交流は続き、1194年にイブン・ルシュドがコルドバで亡くなったときイブン・アラビーは30歳で、その葬儀に参列している。青年期にセビリア法学神学ハディース学を学ぶ。その頃、病床にあった彼は幻視体験からスーフィズム(taṣawwuf タサウウフ、タサッウフ)を学ぶようになった。以後の10年程をアンダルシア・マグリブ各地を遍歴して、スーフィー行者とともに修行した。この時期にアラビーが教えを受けたスーフィーの師匠として、アブー・ジャアファル・ウライニー(Abū Jaʿfar al-ʿUraynī)、アブー・ヤアクーブ・カイスィー(Abū Yaʿqūb al-Qaysī)、サーリフ・アダウィー(Ṣāliḥ al-ʿAdawī)、アブー・ハッジャージュ・ユースフ(Abū al-Ḥajjāj Yūsuf)などがおり、ファーティマ・ビント・ムサンナー(Fāṭima bint al-Muthannā)、シャムス・ウンムル=フカラー(Shams Umm al-Fuqarā')といった女性スーフィー行者からも師として学んだことが知られている。
アラビーはその人生の大部分を旅に費やしている〔。ヒジュラ暦597年(1200年 - 1201年)にアラビーは夢告を受けてマッカ(メッカ)への巡礼を志して東方に旅立った。1202年カイロエルサレムを経てマッカ巡礼を果たした彼はそのまま同地に2年間滞在して、更なる研究に没頭する〔。1204年、彼はマッカにおける研究の集大成である『マッカの啓示』( الفتوحات المكية al-Futūḥāt al-Makkiyya)を著した。
1204年アナトリアを出てコンヤマラティヤの巡礼団を率いてきたマジュドゥッディーン・イスハーク(Shaykh Majd al-Dīn Isḥāq ibn Yūsuf)と出会い、アラビーの教説に感銘したイスハークの誘いを受けて、1205年にコンヤへの復路に同行することとなった。その後も帰還の巡礼団とともにバグダードモースルを経てイスハークの勧めもあってマラティヤに移住した。この時期にルーム・セルジューク朝カイホスロー1世がコンヤで復位(在位:1205年 - 1210年)し、イスハークがカイホスローの宮廷に招かれた際にアラビーも同時に伺候して謁見し、下賜品を授かった。このマジュドゥッディーン・イスハークの息子が、後にアラビーの直弟子のひとりとしてアラビーの教説の流布に奔走したサドルッディーン・クーナウィーṢadr al-Dīn al-Qunawī )である。翌年にもアラビーは近隣への旅を続け、エルサレム・カイロ・マッカなどを訪問し、1210年にはコンヤに再び戻った。1212年にバグダードに赴いているが、これはカイホスロー1世の後を継いだカイカーウース1世(在位 1211年 - 1220年)の即位の報告をカリフ宮廷に報告するため同地を訪れていたイスハークと同道したものと考えられる。アラビーはカイカーウース1世のために実践的なアドバイスを書簡に残している。この時期アラビーはアレッポスィヴァスを訪ねているが、主にマラティヤで生活をしている。また1221年には息子サアドゥッディーン・ムハンマド(Saʿd al-Dīn Muḥammad 1221年 - 1258年)を儲けた。
晩年は支援者であった富豪の招きでダマスクスに居を定めた。遅くとも1230年には同地にいることが知られているが、ここでは彼の言説への反対者からの厳しい批判を浴びたものの、同時に多くの擁護者にも恵まれた。彼はそこで夢告によりアダムから預言者ムハンマドに至る27名の預言者の伝記・思想論集である『叡智の根源』( فصوص الحكم Fuṣūṣ al-Ḥikam)を著した。彼自身の言によると、夢の中に預言者ムハンマドが現れて口述を行って彼に執筆を迫ったのだという。また、彼は詩人及びザーヒル派:en:Ẓāhirīウラマーとしても知られて著作を残しており、その数は生涯で200を越える。彼の没後、郊外のカシオン山中腹に墓廟が築かれ、一部のイスラム教徒からは巡礼の対象地とされ、墓廟周辺は彼の名前にちなんだ「ムフイッディーン地区」という地区名で呼ばれているほどである〔東長靖「第4章 イブン・アラビーの存在一性論学派」『イスラームとスーフィズム』 2013年、108-113頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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