翻訳と辞書
Words near each other
・ イブラーヒーム (アフシャール朝)
・ イブラーヒーム (ウマイヤ朝)
・ イブラーヒーム (クルアーン)
・ イブラーヒーム (ムガル皇帝)
・ イブラーヒーム・アフマド・アブドゥル=サッタール・ムハンマド
・ イブラーヒーム・アブドゥッ=サッタール・ムハンマド
・ イブラーヒーム・アル=ジャアファリー
・ イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー
・ イブラーヒーム・シャー
・ イブラーヒーム・パシャ
イブラーヒーム・ローディー
・ イブラ音楽財団
・ イブリアスコン
・ イブリアスコン共同企業体
・ イブリツモマブ チウキセタン
・ イブリン
・ イブリン・キング
・ イブリン・コリヤー
・ イブリン・シアーズ
・ イブリー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

イブラーヒーム・ローディー : ミニ英和和英辞書
イブラーヒーム・ローディー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イブラーヒーム・ローディー : ウィキペディア日本語版
イブラーヒーム・ローディー[ちょうおん]

イブラーヒーム・ローディー(Ibrahim Lodi, 生年不詳 - 1526年4月21日)は、北インドデリー・スルターン朝ローディー朝の君主(在位:1518年 - 1526年)。
==生涯==

ローディー朝の君主シカンダル・ローディーの息子として生まれた。
1518年11月21日、父シカンダル死亡した。貴族たちは彼の2人の有能な息子イブラーヒーム・ローディーとジャラール・ローディーが、それぞれ領土を分割して統治することを決定した。それはつまり、年上のイブラーヒームはアーグラを都とし、年下のジャラールはジャウンプルを都とするという王国を二分するものであった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.161〕。
こうして、父王の死の翌日にイブラーヒームはアーグラで即位し、ローディー朝の君主となった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.161〕。また、弟のジャラールは彼の即位と同時にジャウンプルへと向かった。
だが、イブラーヒームはその後すぐ、領土の分割統治は貴族の陰謀であると考え、自分の威信が王国の全土に届くよう試みた。彼はジャラールには説得策を用いたが、ジャウンプル周辺の貴族らにはジャラールに忠誠を尽くしてはならないとし、その他兄弟を見な拘束したため、折り合いがつかなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.161-162〕
1517年12月30日、イブラーヒームは再度の即位式を挙げた。その後、ジャラール
を力づくで服従させようとし、1518年にはその巧みな交渉術でカールピー周辺の領土の保有を条件に、王の象徴たる傘とティンパニーを引き渡させた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。
だが、イブラーヒームは合意を守るつもりはなく、ジャラールをいかにして抹殺できるかを考えていた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。そのため、ジャラールは身の危険を感じ、ラージプートグワーリヤル王国へと逃げた。
イブラーヒームはすぐさまグワーリヤル王国と戦端を開いた。そして、父シカンダルが何年も攻め落とすことが出来なかったその首都グワーリヤルを占領した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。だが、ジャラールはグワーリヤルを逃げ、インド中部に避難しようとしていた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。
しかし、ジャラールはイブラーヒームの好意を得ようとしていたゴンド族の王サングラーム・シャーに捕まってしまい、アーグラへと送り届けられた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。イブラーヒームは宮廷にジャラールが届けられると、その後すぐに毒殺を命じた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。
同年、イブラーヒーム・ローディーはメーワール王国サングラーム・シング(ラーナー・サンガー)とも戦端を開いた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.32〕。だが、ローディー朝の軍勢は打ち破られたばかりか〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.32〕、結果としてメーワールの勢力がアーグラ付近にまで到達した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.214〕。
そのうえ、1519年に貴族らが領土の東部で反乱を起こした。イブラーヒームは父代からの貴族を多く殺害・監禁したり、そうでなくとも激怒させていたからである〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。この反乱は鎮圧には成功したものの、双方でそれぞれ1万人の戦死者を出す激戦となった。だが、その後も引き続き忠実ではないと思われる貴族を粛清したため、再度東部で反乱が発生した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。
そのため、イブラーヒームはパンジャーブ総督のダウラト・ハーン・ローディーを味方にしようと使者を送った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.162〕。だが、彼はアーグラへは赴かず、1523年にアフガニスタンのカーブルを拠点としていたバーブルにインドに侵入するよう要請した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163〕。また、メーワール王も同様にバーブルに侵入を要請した。
1525年11月、バーブルはカーブルを出発し、インダス川を越えて北インドに侵入した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163〕。そして、1526年4月21日、イブラーヒームは100,000の大軍と象軍1000とバーブルの軍12,000はデリー近郊のパーニーパットで交戦した(第一次パーニーパットの戦い)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163〕。
しかし、圧倒的優勢だったイブラーヒームの軍勢はバーブルの火器を駆使した戦術に敗れ、イブラーヒームは戦死し、ローディー朝は滅亡した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.163〕〔Tomb of Ibrahim Lodi 〕〔Ibrahim Lodi's Tomb 〕〔The tale of the missing Lodi tomb The Hindu, Jul 04, 2005.〕。イブラーヒームの死を以て、1206年から320年間続いたデリー・スルターン朝の支配は終わりを告げ、新たにムガル帝国(ムガル朝)の時代が始まった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イブラーヒーム・ローディー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.