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イヨネスコ ( リダイレクト:ウジェーヌ・イヨネスコ ) : ウィキペディア日本語版
ウジェーヌ・イヨネスコ

ウジェーヌ・イヨネスコEugène Ionesco, 1909年11月26日 - 1994年3月28日)は、フランスで主に活躍したルーマニア劇作家である。アイルランド出身のサミュエル・ベケットカフカース生まれのアルチュール・アダモフとともに、フランスの不条理演劇を代表する作家の一人として知られている。
== 生涯 ==
本名エウジェン・イオネスクEugen Ionescu)としてルーマニア人のエウジェン・イオネスクとフランス人のテレーズ・イプカールとの間に、1909年11月26日、ルーマニアオルト県スラティナで生まれた。イヨネスコの生年は長らく1912年とされていたが、これは1950年代初頭に、ジャック・ルマルシャンが新しい世代の劇作家の台頭を歓迎したことを受けて、イヨネスコが自身の年齢を3歳若く申告したことによる〔Eugène Ionesco, Théâtre complet, édition établie, présentée et annotée par Emmanuel Jacquart, Paris, Gallimard, coll. Bibliothèque de la Pléiade, 1991, p. LXVIII-LXIX.〕。
1911年に、パリ大学で博士論文(法学)を執筆することになった父親にともない、イヨネスコ一家はパリに移る。その後、イヨネスコは13歳までほとんどの期間をパリで過ごした。1917年から19年まで、イヨネスコと妹のマリリナはマイエンヌ県ラヴァル近郊のラ・シャペル=アントゥネーズに滞在し、その田舎町はその後イヨネスコの作品の中で、失われた楽園としてしばしば回想されることとなる。
妻子をパリに置き去りにしてルーマニアへ帰国したイヨネスコの父親は、一方的に離婚を成立させ再婚する。残された二人の子供(次男のミルチャは夭逝)を一人で育てきれなくなった母親は、子供達とともにルーマニアへ戻り、父親を探し出して子供の養育を委ねることとなった。母親を慕っていたイヨネスコにとって、この別離は大きな苦痛となった。同時に父親や継母とことあるごとに対立し、17歳の時には家を出て生活することとなった。これら家族内での対立は『義務の犠牲者』や『死者のもとへの旅』にその痕跡を見てとることができる。1929年ブカレスト大学へ入学し、そこでエミール・シオランミルチャ・エリアーデと出会い、3人は終生の友人となった。この頃から詩や評論を書き始め、多くの雑誌に寄稿をし、評論集『否』は賛否両論の大きな反響を呼んだ。1936年にロディカ・ブリレアヌと結婚し、同じ時期にフランス語教師の資格を取得している。
1938年には奨学金を受け、博士論文(題名は『ボードレール以降のフランス詩における罪と死』)を執筆するため再びフランスへ戻る。しかし1939年に勃発した第二次世界大戦のために、一時ブカレストへの帰国を余儀なくされる。1942年に再びフランスに戻り、在ヴィシールーマニア公館文化部職員(後に文化担当官)となる。1944年には一人娘のマリー=フランスが誕生。戦後は出版社に勤務し校正を担当した。その後、著述の分野で才能を発揮し始めた。
1950年に『禿の女歌手』を、1951年に『授業』を、1952年には『椅子』を発表。古典劇の規則を無視した「不条理」な作風が、発表当時は受け入れられなかった。しかし、50年代後半より脚光を浴び始め、現代演劇史に大きな足跡を残すことになった。パリのセーヌ左岸にある小劇場、ユシェット座では1957年以来、現在に至るまで継続的に『禿の女歌手』と『授業』の上演を行っている。
その後のイヨネスコは戯曲を発表する傍ら、政治への関心を示し、特にソ連を初めとする共産主義体制、さらにサルトルに代表される左派知識人を厳しく批判し続けた。ルーマニア出身のイヨネスコのもとには、東ヨーロッパ出身の政治亡命者が多く集まっていたため、イヨネスコは当時のフランスではとかく理想的に捉えられていた共産主義社会の現実に通じていた。
1966年には『渇きと飢え』がコメディ・フランセーズで上演されるなど、イヨネスコの名声は年を追うごとに高まり、1970年には、その功績により、アカデミー・フランセーズ会員に選出された。この頃から、神経症の傾向が強まり、そのセラピーの一種として絵画をはじめる。イヨネスコは晩年になると、文学作品の執筆を徐々に止め、そのかわりに絵画に熱中するようになり、ドイツ、スイス、フランスなどで展覧会も開いた。
1994年に死去。パリのモンパルナス墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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