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イル川渡河戦(イルがわとかせん、)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)8月21日、ガダルカナル島において日本軍とアメリカ合衆国海兵隊を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘。テナルの戦い()、アリゲーター・クリークの戦い()とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。 アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将を指揮官とする米海兵隊第一海兵師団は、1942年8月7日ガダルカナル島に上陸し、ルンガ岬に日本軍が建設中であったヘンダーソン飛行場を奪取してこの防衛にあたっていた。一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のための先遣隊として派遣された一木清直大佐率いる一木支隊第1梯団は8月19日未明に同島に上陸、このときガダルカナル島全体の連合軍側の戦力はおよそ11,000名であったが日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた。一木支隊は上陸地点のタイボ岬から西進し、20日深夜にルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇、21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った。さらに米海兵隊は夜明けを待って残存兵を包囲殲滅し、21日午後一木支隊は壊滅した。この戦いで917名いた一木支隊第1梯団のうち、生き残ったのは後方に待機させ戦闘に直接参加しなかった約100名を含む128名だけであった。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない。 日本軍はこの戦いの後、上陸したガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを知り、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいった。 == 背景 == 1942年8月7日、米軍はソロモン諸島内のガダルカナル島、ツラギ島およびフロリダ諸島に上陸した。これは、これらの島嶼が日本軍の軍事基地となって米豪間の補給ルートを脅かすことを阻止するためであり、他方ニューギニアの戦いを支援して最終的には日本軍のラバウル基地を孤立させるための拠点とする意図もあった。この「フロリダ諸島の戦い」がその後6ヵ月の長きにわたるガダルカナル島の戦いの始まりである〔Hogue, ''Pearl Harbor to Guadalcanal'', p. 235–236.〕。 連合軍は奇襲を成功させ、初期目的であるツラギ島とその近隣島嶼を確保、8月8日の日没までにはガダルカナル島ルンガ岬に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した〔Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', pp. 14–15.〕。8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍三川軍一中将率いる第八艦隊の巡洋艦7隻、駆逐艦1隻と交戦、連合軍側は巡洋艦4隻(米3隻、豪1隻)が撃沈、米巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が大破するなど多大な損害を被った。(第一次ソロモン海戦。)リッチモンド・K・ターナー少将は8月9日夕刻までに、残る重機、食糧、兵の揚陸を断念し海軍戦力すべてを撤退させた。このとき、32門の75mm榴弾砲と105mm榴弾砲からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は5日分しか揚陸できなかった〔Zimmerman, ''The Guadalcanal Campaign'', p. 49–56.〕〔Smith, ''Bloody Ridge'', p. 11 & 16.〕。 ガダルカナル島に上陸した海兵隊第1海兵師団は、はじめ奪取した飛行場のあるルンガ岬周辺に防衛線を構築することに注力し、物資の搬入と飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト少将は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場の建設工事は主に日本軍の残した資材を使用して進められた。8月12日、飛行場はミッドウェー海戦で戦死した米海軍パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという〔Shaw, ''First Offensive'', p. 13.〕〔Smith, ''Bloody Ridge'', p. 16–17.〕。 連合軍のガダルカナル島上陸に対し日本海軍は陸軍に協力を要請、陸軍は百武晴吉中将を司令官とするラバウルの第17軍にガダルカナル奪還の任を命じた。だが第17軍はこのときニューギニアの戦いに部隊を参加させていたため、ソロモン南部へはパラオ諸島の川口支隊(川口清健少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、フィリピンの青葉支隊(那須弓雄少将、第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島に待機中であった一木支隊(一木清直大佐、第7師団歩兵第28連隊基幹)〔Miller, ''The First Offensive'', p. 96〕を投入することとした。各隊は直ちにガダルカナル島へ向かったが、距離の近かった一木支隊が最初に到着した〔Smith, ''Bloody Ridge'', p. 88, Evans, ''Japanese Navy'', p. 158, and Frank, ''Guadalcanal'', p. 141–143. 「一木支隊は北海道の第7師団を基幹として編成された。第2師団を基幹とする青葉支隊は仙台の青葉城からその名をとった。一木支隊は当初ミッドウェー島の侵攻・占領のため充当された部隊であったがミッドウェー海戦の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、本土へ帰還するところガダルカナル戦に投入された。なおEvansの著書では、田中頼三が一木支隊をミッドウェー海戦の後グァム島に降ろしたと述べている。一木支隊はグアムからトラック島を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。〕。 8月12日、日本軍はガダルカナルの米海兵隊の位置を確認するためラバウルから航空偵察を行ったが、開けた場所には米兵がほとんどおらず、近海にも大型艦船が認められなかった。このことから大本営は、連合軍は部隊の大部分を撤退させたものとみたが、実際には連合軍は撤退などしていなかった〔Frank, ''Guadalcanal'', p. 143–144.〕。なお大本営が8月13日に第17軍に打った電報では「ソロモン群島要地奪回には(中略)できれば一木支隊と海軍陸戦隊のみで、すみやかに奪回するを可とせざるやと考えている」とあり、戦況を楽観視していたことがうかがえる〔川口 (1960), p.197〕。百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として速度の速い駆逐艦で直ちにガダルカナル島に上陸させ、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。後続の第2梯団は別途低速の輸送船で送り込まれることとなった。一木支隊第1梯団はトラック島にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた〔Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 98–99 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 31.〕。 8月19日01:00、有賀幸作大佐(第四駆逐隊司令)に指揮された陽炎型駆逐艦6隻(旗艦/嵐、萩風、浦風、谷風、浜風、陽炎)に乗船した一木大佐以下916名からなる第1梯団は、食料7日分を携行してルンガ岬の約35km東にあるタイボ岬に上陸した〔Evans, ''Japanese Navy'', p. 161, Frank, ''Guadalcanal'', p. 145, Jersey, ''Hell's Islands'', p. 204, 212, Morison, ''Struggle for Guadalcanal'', p. 70, and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 43. 第1梯団は北海道旭川の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長蔵本信夫少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり、一木支隊の上陸を支援した。〕。上陸後、一木大佐は約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いて行軍を開始、19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、日本軍がガダルカナル島に上陸したとの情報を得ていたが、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた〔Griffith, ''Battle for Guadalcanal'', p. 99–100 and Smith, ''Bloody Ridge'', p. 29 & 43–44.〕。なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)はラビの戦いに従事するためすぐにラバウルへ向かい、残3隻はB-17爆撃機の空襲により「萩風」が大破、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イル川渡河戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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