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インド総督(インドそうとく、Governor-General of India)は、イギリス政府(1858年まではイギリス東インド会社)が植民地インドに置いていた総督である。 == 歴史 == イギリス東インド会社はエリザベス朝の1600年に勅許状によって成立した勅許会社であり、東洋貿易を独占する権利、現地で政府を組織する権限、通貨発行権、軍隊組織権、特定の国への宣戦布告権などを認められていた〔浜渦(1999) p.19〕。 1757年にベンガル太守にプラッシーの戦いで勝利し、ムガル帝国皇帝よりベンガル州の徴税権を獲得したイギリス東インド会社はいよいよ商人の仮面を脱ぎ捨てて政治的・軍事的にインドを支配することを目論むようになり、植民地化政策を推し進めていった〔長崎(1981) p.19/37〕。 イギリス東インド会社がインドに置いていた3つの商館(ボンベイ、マドラス、カルカッタ)が獲得した支配領域は管区(Presidency)と呼ばれ、それぞれに知事(Governor)が置かれた(ボンベイ知事、マドラス知事、ベンガル知事)〔浜渦(1999) p.22〕。この3つの商館と知事の権限ははじめ同等だったが、経済的に最も重要なのはカルカッタ(ベンガル)だったため、1773年規正法によりカルカッタの商館が「最高商館(Supreme council)」、ベンガル知事がベンガル総督(Governor-General)に昇格し、他の2つの管区政府の監督権を与えられるに至った〔浜渦(1999) p.22-23/36〕。また同年にベンガル総督はムガル皇帝に臣下の礼を取ることを拒否している〔長崎(1981) p.38〕。 1803年に第2次マラーター戦争においてイギリス東インド会社がインド亜大陸最大勢力マラータ同盟に勝利すると、イギリス東インド会社のインド支配はほぼ確定した(ムガル皇帝にとってはイギリス東インド会社とマラータ同盟の戦争は「ベンガル徴税長官」と「摂政」という「家臣」同士の争いに過ぎなかったので介入しなかったが、この戦争後ムガル皇帝はイギリス東インド会社からの年金で細々と暮らす年金生活者と化す)〔長崎(1981) p.38-39〕。 1833年の特許法でベンガル総督はインド総督と改称された。ここに名実ともにカルカッタの最高商館がイギリス東インド会社領の中央政府となった〔浜渦(1999) p.36〕。 1773年規正法ではベンガル総督の任免は東インド会社役員会の専権事項とされていたが、1784年に首相ウィリアム・ピット(小ピット)がインド法を制定し、イギリス政府内に東インド会社の監督を行うインド庁(Board of Control)を設置した。インド庁は法律上東インド会社の政務にだけ参画することになっていたが、実際には商務にも口を出すことが多く、やがて会社役員会を差し置いて会社を支配するようになった。総督の任免もイギリス政府が事実上決定し、会社役員会はイギリス政府の人選に都合が悪いと感じた場合に拒否権を発動するに留まった。そのため徐々に役員会は不要と考えられるようになり、1833年特許法では会社役員会はインド庁の諮問機関に格下げされるに至った〔浜渦(1999) p.30-31/37-38〕。 形式的には東インド会社役員会も商務や人事権を残したので、1858年までインドはイギリス本国政府と東インド会社の二重支配状態に置かれていたといえる。しかし1858年のインド大反乱を機にムガル帝国とイギリス東インド会社の統治は正式に廃され、以降インドはヴィクトリア女王(実質的には女王陛下の政府)の直接統治下に置かれることになった(英領インド帝国)。これに伴い本国のインド庁はに昇格、またインド総督はインド内において副王(Viceroy)の称号を使用するようになった〔浜渦(1999) p.41-42〕。 総督は英領インド帝国時代全期を通じて専制君主も同然の独裁権力を掌握し続けたが、1947年のインド独立でインド連邦総督に改組され、名目上の国家元首となった。更に1950年に共和政へ移行する憲法が定められたことで総督ポストは廃止された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「インドの総督」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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