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イヴァイロ(、? - 1280年もしくは1281年)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1278年 - 1279年)。ブルガリア語で「ラディッシュ」「レタス」を意味する「バルドコヴァ」(Bardokva)、ギリシア語で「キャベツ」を意味する「ラカナス」(Lakhanas)の渾名で呼ばれる〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、98頁〕。 1277年に農民反乱を起こし、ブルガリアの貴族たちに皇帝への登位を認めさせた。東ローマ帝国とモンゴル国家であるジョチ・ウルスとの戦争に勝利し、数年の間帝位を保った。しかし、外国の反撃と貴族の反発に遭って失脚し、ジョチ・ウルスに追放され、暗殺された。 == 生涯 == === 「神のお告げ」による蜂起 === 1270年代のブルガリアでは民衆の間で皇帝の権威は失墜しており、またブルガリア北部では長期にわたってモンゴルによる収奪が繰り返されていた〔寺島「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』、32-33頁〕。 イヴァイロは元々貧しい農民であり、雇われの豚飼いをして生計を立てていた。やがて彼は、自分がジョチ・ウルスの王族であるノガイの頻繁な侵入に晒されているブルガリアを救う任務を神から与えられたと妄想するようになる。仲間の豚飼いや農民たちに困苦からの脱出を説いて回り、1277年に義勇軍を率いてモンゴル軍に対して数度の勝利を収め、モンゴルの勢力をドナウ川北方に押し出した。モンゴルに対しての勝利をきっかけに皇帝の政治に不満を持っていた人間がイヴァイロの周りに集まり〔、皇帝と貴族に反乱を起こしてタルノヴォに進軍した。 ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフはイヴァイロの討伐に向かうが敗北し、イヴァイロはコンスタンティンを捕らえて「生け贄の動物のように」処刑した 〔。コンスタンティン・ティフが率いていた皇帝軍と一部の貴族もイヴァイロの反乱軍に加わるが〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、99頁〕、反乱は広範囲に拡大するが抵抗を続ける者もおり、首都のタルノヴォはコンスタンティンの未亡人マリア・パレオロゴス・カンタクゼノス(:en:Maria Palaiologina Kantakouzene)とその子ミハイル(:en:Michael Asen II of Bulgaria)の支配下で独立を保っていた。 しかし、イヴァイロの成功は東ローマ皇帝ミカエル8世に不安を抱かせる。当初ミカエル8世はイヴァイロの反乱を貴族間の争いと考えてイヴァイロに接近しようとし〔、自分の娘を嫁がせて婚姻関係を結ぼうとした。しかし、反乱が反封建的な性質のものであると知ったミカエル8世は計画を変更し、東ローマの宮廷に滞在していたブルガリアの王族イヴァン・アセン3世に娘のイリニを嫁がせた。彼を帝位に就けるために軍隊を付けてブルガリアに送り返し〔、イヴァン・アセン3世を通してブルガリアを服属させようとする〔森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イヴァイロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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