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イヴァン・ブリュホヴェーツィクィイ : ミニ英和和英辞書
イヴァン・ブリュホヴェーツィクィイ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

イヴァン・ブリュホヴェーツィクィイ ( リダイレクト:イヴァン・ブリュホヴェーツィキー ) : ウィキペディア日本語版
イヴァン・ブリュホヴェーツィキー[ちょうおん]

イヴァン・ブリュホヴェーツィキーウクライナ語:''Іва́н Брюхове́цький'';1623年1668年6月17日)は、ウクライナの政治家、軍人。左岸ウクライナを中心としたコサック国家元首ザポロージャ・コサック将軍1663年1668年)。正教徒貴族ブリュホヴェーツィキー家の当主。マールティン・ブリュホヴェーツィキーの息子。
==概要==
ポーランド・リトアニア共和国キエフ県ポルターヴァ地方で生まれた。フメリヌィーツィキーの乱1648年1657年)の際、コサックの将軍ボフダーン・フメリヌィーツィキー執事を務めた。1656年にコサックの使節団の一員として、同盟を結ぶためにトランシルヴァニアを訪問した。将軍の子息ユーリーの教育を担当し、1657年にユーリーを連れてキエフ・モヒーラ学院へ同行した。新たな将軍としてイヴァン・ヴィホーウシキーが選ばれると、彼の命令を受けてワルシャワへ派遣された。1659年春に職を辞任してヴィホーウシキー将軍のもとを去り、ザポロージャシーチに赴いた。そこで反政府宣伝活動を行い、コサックの貧困層の人気を得た。1661年にシーチの軍長に選ばれ、1662年に左岸ウクライナにおける将軍選挙に立候補した。選挙戦でロシアツァーリアレクセイウクライナに滞在するロシアの軍人と行政官、キエフ府主教代行のメトディイの支援を確保した。平コサックと一般民衆の支持を得るために、大衆主義的思想、とりわけ格差の削減、金持ちの長老との戦いを唱えた。1663年に、「黎会」と呼ばれるコサックと黎民が参加する選挙会議において新たな将軍に選ばれた。勝利後、落選したヤキム・ソムコーヴァスィーリ・ゾロタレーンコを処刑した。将軍座をハーデャチへ移した。選挙の時の約束に反して中央集権化を目指す改革を実行し、格差を深め、粛清の人事を行った。1664年から1665年にかけて、コサック国家を統一するため、パウロー・テテーリャ将軍とペトロー・ドロシェーンコ将軍が支配する右岸ウクライナと戦争したが、惨敗した〔Розділ V. Козацька ера. § 2. Руїна (1658-1686). // Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця ХVІІІ ст. — Київ, 1997.〕。国内の野党を押さえるため、ロシア政府とその軍勢を利用した。1665年にコサック将軍として初めてモスクワを訪問し、ロシア人の貴族の娘と結婚し、ウクライナの自治制を著しく制限するモスクワ条約を結んだ。しかし、その条約がウクライナにおける反ロシア・反将軍の運動を促し、将軍の権威を大きく失墜させた。1667年に、ロシアとポーランドがウクライナを分割するアンドルソヴォ条約を結ぶと、それに反発して1668年1月にロシアとのモスクワ条約を一方的に取り消した。右岸ウクライナの将軍に援軍を呼びかけ、オスマン帝国保護を受けるためにイスタンブルへコサック使節団を派遣した。同年の春にクリミア・ハン国と同盟を結び、ウクライナからロシア軍と行政官を追い払った。同年7月に右岸ウクライナのドロシェーンコ将軍と会議するために、ディカーニカ村に赴いた。しかし、1668年7月17日、会議が開かれる前に、左岸ウクライナのコサックに襲われ、ウクライナをロシアに売国した罪で生きたままで切り刻まれた。その後、ドロシェーンコの命令によりハーデャチの聖堂国葬にされた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ivan Briukhovetsky 」があります。




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