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イーゴリ1世(古東スラヴ語・ロシア語:、ウクライナ語:、865年あるいは877年? - 945年)は、キエフ公国の大公(在位:913年/923年 - 945年)。ルーシの祖というべきリューリクの子とされるが、リューリクの子ではないという説もある〔熊野 (1967), p243〕。オレグ摂政の死後、キエフ大公国の支配者となった。 == 生涯 == 『原初年代記』によれば、イーゴリ1世の代にルーシはノヴゴロドからキエフにその中心を移した。その際、キエフを支配していたアスコルドとジールを奸計により殺害したとされる。 イーゴリ1世の代はキエフ公国のスラヴ化が進んだ時期であり、もしリューリクの子でないとすれば、東スラヴ人初の君主である可能性も高い(イーゴリの名は古ノルド語のイングヴァルから変化しているとも言われている)。彼の配下には、ヴァイキング(ノルマン人)の精鋭が多数含まれていたが、彼自身には、あまりヴァイキング的資質はなかったようである。 治世当初は「同族」(ヴァイキングあるいはヴァリャーグ)のオレグがイーゴリの摂政を引き受けていた。 903年頃に后としてオリガをプスコフから迎える。910年代には、摂政オレグに代わり軍務に服す。その後周辺部族を平伏させ、貢納を課した。この頃、東方より遊牧民のペチェネグが現れ、以後キエフ公国との抗争が開始される事となる。 944年にビザンツ帝国に遠征した。この時にギリシアの火を使用されたという。講和条約の際にあらたな条約を結ぶ。ただしこの条約では、前回(907年の条約)に比べルーシの商人の権利が制限されるなどの不利な内容となった〔田中陽兒「キエフ国家の形成」p65〕。 945年、ドレヴリャーネ族に対する巡回徴貢(ポリュージエ)の際に、過度の貢納の強制に対して蜂起したドレヴリャーネ族によって暗殺された〔田中陽兒「キエフ国家の形成」p66〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イーゴリ1世」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Igor of Kiev 」があります。 スポンサード リンク
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