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エリー運河(エリーうんが、)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある運河。エリー湖からハドソン川上流までを繋ぎ、ニューヨーク港に注ぐハドソン川を通じて五大湖と大西洋の間の舟運を可能にした運河である。東部と中西部の運搬を一気に容易にした最初期の交通革命となった〔p41〕。 最初に提案されたのは1699年だったが、1798年になってやっとナイアガラ運河会社が設立され建設の準備が始められた。最初にその一部が開通したのは1819年で、全通は1825年10月26日。全長363マイル(584キロメートル)、幅40フィート(12メートル)、深さ4フィート(1.2メートル)で、閘門は83箇所あり、それぞれ幅90フィート(27 メートル)、高さ15フィート(4.5メートル)となっている。通航可能な船の排水量は75米トン(68メートルトン)。 エリー運河は東海岸とその西側の内陸部との間の交通手段として、動物に曳かせる荷車より速く、当時の荒地を行くよりも輸送費用が95パーセント節約できた。派生的にニューヨーク州西部への人口移動がおこり、さらに西の領域へ開拓の道を開くことになった。現在はニューヨーク州運河システムの一部となっている。 == 歴史 == === 提案と計画 === イギリスで1761年に完成し、炭鉱とマンチェスターを繋いだブリッジウォーター運河の華々しい成功は、18世紀後半のイギリスで運河建設のブームを生んだ。アメリカ東海岸と新しい西の開拓地を結ぶために運河、あるいは人工的に改良された水路を造るという考え方は、1724年にキャドワルダー・コールデンがモホーク川を使った案を提案したが宙に浮いていた。ジョージ・ワシントンはポトマック川を使って西部に航行できるようにする案を考え、1785年から彼の死ぬ15年後までパトーマック会社に少なからぬ労力と資本を注入した。ブリッジウォーター運河について詳しかったクリストファー・コールズがモホーク川渓谷を測量し、1784年にニューヨーク州議会に対してオールバニとオンタリオ湖を結ぶ運河の提案を行った。この提案は相当な関心を引き行動に移されたものもあったが、結局は何も生み出さなかった。ガバヌーア・モリスとエルカナー・ワトソンも早くからモホーク川を使った運河を提案しており、二人の努力でウエスターン・インランド・ロック・ナビゲーション会社が創設され、モホーク川を改良する最初の取り組みが行われた。しかしこの会社で分かったことは、このような大きさの事業に対して私的な財源では不適だということだった。 起業家ジェシー・ホーレーはその努力が直接運河に向けられた提案者だった。ホーレーはニューヨーク州北部の平原(当時はほとんど未開だった)で大量の穀物を育て、東海岸で売ることが出来ると考えた。しかし、ホーレーは穀物を海岸まで運ぶ事業をやっていて破産し、カナンデイグア債務者刑務所にはいっている間に、モホーク川渓谷を使った運河の建設を提案し始めた。ホーレーはバタビアのホランド・ランド会社の代理人ジョセフ・エリコットの強い支持を取り付けた。エリコットは運河を造れば自分が売っているニューヨーク州西部の土地の価値をかなり上げられると考えた。エリコットは後に運河の最初の理事になった。ハドソン川の支流であるモホーク川はアパラチア山脈の北縁にあたり、氷河が溶けた水がニューヨーク州に峡谷を作って、キャッツキル山地とアディロンダック山地を分けていた。モホーク川はアラバマ州から北では唯一アパラチア山脈を横切っており、東は既に広く使われているハドソン川に直接繋がり、西はオンタリオ湖かエリー湖に近かった。そこからは内陸部の者や多くの開拓者がこれらの湖に行くことができた。 問題は、ハドソン川のオールバニとエリー湖の標高差が約600フィート (183 m)あることだった。当時の閘門は12フィート (3.5 m)までの高低差までなら扱えたので、360マイルの運河には少なくとも50箇所の閘門が必要だった。今日でもそのような運河は費用が掛かって仕方が無いが、1800年にそのような事業はほとんど想像の域を超えていた。当時のトーマス・ジェファーソン大統領は、「ほとんど気違い沙汰に近い」と言ってその提案を話にならないとし、拒絶した。〔Editors (October 22, 2001) "Invest in Canal but Make Goals Realistic." UticaOD.com〕それにも拘わらず、ホーレーはニューヨーク州知事のデウィット・クリントンの関心を引き出し、計画の照査の後で賛同を得た。世論は圧倒的にこの計画を愚かなものと見なしていたので、この計画は「クリントンの愚行」とか「クリントンのどぶ」と呼ばれるようになった。1817年、クリントンは運河建設予算に関してニューヨーク州議会の承認を取り付けた。 運河は幅40フィート (12 m)、深さは4フィート (1.2 m)とされ、取り除かれた土壌は堤の歩道を造るために横の斜面に積み上げられた。喫水が3.5フィート (1.07 m)までの艀が歩道上の馬、後にはラバに曳かれて行き来することになった。双方向に行き交う艀に対し、曳き船道は1つしかなかったので、艀が離合する時は艀が慣性力で動いている間に、牽引用の動物から曳き綱を素早く解いてまた反対向きの動物に付け直すという操作を必要とした。運河の側面は石で固められ、底には粘土を置いた。石の細工には何百人ものドイツ人石工が動員され、運河の工事が完成した後は、ニューヨークの多くの著名な建物の建設に回ることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリー運河」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Erie Canal 」があります。 スポンサード リンク
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