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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 史観 : [しかん] (n) historical view ・ 観 : [かん] 1. (n,n-suf) look 2. appearance 3. spectacle
ホイッグ史観(ホイッグしかん、、ウィッグ史観とも)は、歴史を「進歩を担った殊勲者」対「進歩に抵抗した頑迷な人びと」に分け、両陣営の戦いと前者の勝利として歴史を物語的に記述する歴史観である。「成功している我々」や「繁栄している現体制」を歴史的必然、絶対的な運命に導かれるものとして、そこに至る進歩的、進化的、合理的、直線的、連続的な過程として読み替えてしまう、いわば勝利者による正統史観というべきもの。啓蒙主義や社会進化論とも関係が深い。 現代の進歩をもたらした功労者がホイッグ・プロテスタントであり、それに逆らった者がトーリ党・カトリックである。前者の代表がウィリアム3世やエリザベス、後者はジェームズ2世やジョージ3世などによって構成される。 ==定義== 栄田卓弘によるホイッグ史観の定義は以下の通り〔栄田, pp.174-176.〕。 #進歩の味方/敵という二項対立で歴史を描く。敵方の勢力・人物は歴史上有害で、歴史的に無意味な存在である。 #現在のために過去を研究する姿勢をとる。過去は現在の起源として存在を許され、進歩派がそのルーツであり、その敵は生物進化における絶滅種にひとしい。たとえば、信仰の自由はルターの功績によるもので、我々はルターに感謝すべきであるとする〔たとえば、バターフィールド、pp.50-70.〕。 #歴史家は過去に対する裁判官である。進歩の敵は「容赦なく断罪され」、進歩をもたらした者は歴史的英雄の地位を勝ち得る〔名誉革命に対する伝統的解釈は一例となりうる。すなわち「ジェームズ2世によるカトリック絶対主義の恐怖に覆われていたイングランドを、オレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)が自らの損得を顧みず救った」という解釈がそれで、ジョン・ハムデンJrやエドマンド・バークをへてトマス・マコーリーの「イングランド史」によって大成した。1950年代まではこれが通説となっていたが、現在では名誉革命すなわちGlorious Revolutionという名称にも歴史家たちは慎重になりつつある。Schwoererは「1688-89年におきた出来事を是認し、賞賛するように仕向けたプロパガンダであるといえる。この形容を無批判に用いることは、いかに視野狭窄に陥っているかを声高に主張するようなもの」と述べる。Schwoerer, pp. 1-3.〕。歴史家は過去を道徳的に判断する権利と責任を持つ。 こうしたホイッグ流の歴史記述はマコーリーから、彼の姪孫にあたるトレヴェリアン〔George Macaulay Trevelyan. 『イギリス史』『イギリス社会史』などの著作は和訳されている。:en:George Macaulay Trevelyan参照。〕らに受け継がれた。マルクスらの唯物史観はイデオロギーとしては異なるが、同じ進歩史観で共通点も多く、批判・否定よりも同調することが多かった〔のちにアナール学派や修正主義歴史学などの実証研究によって、1970年代 - 90年代にかけて、ホイッグ史観・唯物史観は共倒れ的に地位を失っていった。近藤、p42およびf.n.2.〕。中世前期史においてもアングロサクソン、特に七王国時代のイングランドはゲルマン的な自由な社会だったと永らく主張されていた。これは一般自由人学説とよばれ、自由主義の広がりを追い風に通説となった。しかしこれは自由主義の退潮と前後して批判を受け、通説的立場を失ってきている〔自由な農民チェオルルが多数を占める自由社会から、ノルマン・コンクエストをへて中世封建制に移行したとする学説がそれである。しかしチェオルルが自由とはいえない状況にあったことが史料から次第に明らかにされ、従来の通説は切り崩されてきている。青山、pp.2-14(第1章 学説史的整理/第1節 欧米学界の学説史的動向)および pp.62-78(第2章 「チェオルル」とは何か/第3節 中層的自由人の「自由」)、特にp2。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホイッグ史観」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Whig history 」があります。 スポンサード リンク
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