|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ウィナーズサークルとは日本の競走馬、種牡馬である。おもな勝鞍は東京優駿(日本ダービー)。1989年JRA賞最優秀4歳牡馬(部門名は当時)。史上初の茨城県産・芦毛の東京優駿優勝馬である。半兄にクリノサンフォード(ダイオライト記念)がいる。 == 戦績 == 1988年7月に福島の新馬戦でデビューし4着に敗れた。その後2戦するものの勝ちきれず、連続して2着に終わった。 年が明けた1989年、ダートの未勝利戦でようやく初勝利をあげ、カトレア賞、400万下条件戦とダート路線で連続して2着した後の400万下条件戦で2着に7馬身差をつけて勝利、皐月賞に出走した。しかし、重賞競走の出走経験もなく、ダートでの勝ち鞍しかなかった事などもあり7番人気だった。当日朝まで降っていた雨の影響で馬場状態が不良で行われたこのレースは、3番人気のドクタースパートが制し、ウィナーズサークルは追い込んだものの1/2馬身差の2着に敗れた。 そして東京優駿では、この年の牡馬クラシック路線が非常に混戦模様であり、中心馬不在のレースとなった。1番人気は前走の若草ステークスを勝利したロングシンホニー、2番人気はクライムカイザーを父に持ち父子2代の東京優駿制覇を狙うマイネルブレーブ、3番人気がウィナーズサークルであった。4番人気の皐月賞優勝馬ドクタースパート、5番人気の3歳(当時)王者サクラホクトオーまでが単勝倍率が1桁であり、ロングシンホニーが6.0倍だった事もこの年の東京優駿が混戦であったことを物語っている。レースではマイネルムートが逃げ、ウィナーズサークルは中段に位置取ると直線で6番人気リアルバースデーとの叩き合いを1/2馬身差制してゴール、茨城県産として、また芦毛馬として初めて東京優駿を勝利した。鞍上の郷原洋行は1980年のオペックホース以来の同レース2勝目となった。郷原は後に「日本ダービーを勝たせるためにこの馬を教育していた」と語っている。調教師は松山康久、厩務員は村井正芳であった。 夏を休養して迎えた京都新聞杯は1番人気のオサイチジョージに次ぐ2番人気となり、レースはバンブービギンの4着に敗れた。その後菊花賞に出走したが、ここでもバンブービギンの10着に敗れた。さらにレース中に骨折していた事が判明、引退となった。 引退後は種牡馬になったもののステイヤー血統という事もあり、東京優駿優勝馬でありながら評価が低く、初年度から苦戦する事となった。実際に種牡馬成績も芳しくなく、地方重賞勝ち馬が1頭いるのみである。 2014年12月からは功労馬繋養展示事業の助成を受け、茨城県の東京大学農学部附属牧場で繋養されている〔引退名馬 - ウィナーズサークル 2015年4月5日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィナーズサークル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|