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ウィノナ・ラデューク : ミニ英和和英辞書
ウィノナ・ラデューク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウィノナ・ラデューク : ウィキペディア日本語版
ウィノナ・ラデューク[ちょうおん]

ウィノナ・ラデューク (、ベナイサイェクアイ、1959年生)は、アメリカインディアンの民族運動家、政治家、作家。
==来歴==
ウィノナ・ラデューク は、1959年にロサンゼルスにおいて、オジブワ族の父親ヴィンセント・ラデュークと、ロシア系ユダヤ人の母親ベティ・バーンスタインの間に生まれた。
1950年代中頃、オジブワ族権利運動家だった父親のヴィンセント(1929年-1992年)は、ミネソタ州の「白い大地インディアン保留地」の部族会議の腐敗ぶりに憤慨し、部族の窮状を合衆国政府に訴えるため、単身ヒッチハイクでワシントンD.C.に向かった。 彼の母族であるオジブワ族の「白い大地」のバンドが1867年に連邦政府とインディアン条約を結んだ際に3387㎢あった領土(保留地)は、百年足らずの間にその9割強の土地を白人に奪われ、縮小した領土での生活は貧窮し、当時、部族民の失業率は80%を超えていた。連邦の傀儡に過ぎない部族政府は、部族のためにまったく役立たなかった。ヴィンセントは早くから権利運動に目覚め、部族会議でこれを激しく非難したのは15歳の時だった。
彼はその途上で、ロシア系ユダヤ人のベティ・バーンスタインと出会った。二人は1958年に「白い大地インディアン保留地」で結婚し、ロサンゼルスへと移った。ヴィンセントはハリウッド西部劇映画のエキストラとして働き、落馬スタントの名人として知られるようになった。一年後の1959年に一人娘「ベナイサイェクアイ」(サンダーバード)こと、ウィノナが生まれた。父親の賃金は安く、母親は美術教師となるため働きながら学校に通っていた。「当時の目標はただ生き残ることでした」とウィノナは回想している。
1964年、両親が離婚し〔のちにヴィンセントは1980年代中頃に「太陽の熊」という聖名を授けられ、各国を歴訪するようになり、ことにドイツで有名になった〕、母親ベティは南オレゴン大学の美術講師の職を得て、オレゴン州境のアッシュランドに5歳のウィノナと共に引っ越した。ベティは再婚し、学問仲間と中流家庭を持つことが出来た。当時を知るウィノナの友人たちは、「彼女が学校よりも、裁縫や物を作るほうが好きで、物静かで好奇心旺盛な少女だった」と述懐している。しかしこの「礼儀正しく物静か」という態度は、インディアンとユダヤ人の混血である彼女に対する人種差別に対する彼女なりの処方でもあった。ウィノナは地区のジュニア及びシニアのプロムには決して招かれなかった。母親ベティは娘に行動主義を教えた。インディアン活動家としての精神を育まれたウィノナは、当時拡大していたインディアンの権利運動「レッド・パワー」に早くからその身を投じることとなった。
1974年、15歳のウィノナは「アメリカインディアン運動」(AIM)の、ローレライ・デコラ・ミーンズ、マドンナ・サンダーホーク、フィリス・ヤング、ジャネット・マクラウドら女性運動家らと共に、インディアン女性の権利運動団体「すべての赤い国の女たち」(WARN)の発起人となった。
また、同年6月の「国際インディアン条約会議」(IITC)創設にも参加。「IITC」は、国際連合経済社会理事会が非政府組織(NGO)と認めた最初のインディアン団体となった。
1977年、高校生時代に弁論大会でチーム優勝したウィノナはハーバード大学にスカウトされ、同校に進んだ。ここでウィノナは、チェロキー族の活動家ジミー・ダーラムと出会い、アメリカインディアンが直面する環境問題に取り組み始めた。
同年、ジムの手引きでウィノナは「IITC」代表団の一人として、スイスのジュネーブで開催された国連会議に参加。「IITC」は、「我々の民族名はアメリカインディアンである」と全会一致で決議表明した。18歳のウィノナは各国代表の前でインディアン条約の問題点について演説し、一躍国際的な有名人となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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