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ウィリアム・アジャー・モフェット(William Adger Moffett, 1869年10月31日-1933年4月4日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は少将。名誉勲章受章者。 モフェットは生粋の航空人ではなかったが航空に深い理解を示し、アメリカ海軍における海軍航空隊の礎を築いて「アメリカ海軍航空隊の父」〔#Arpee〕〔#谷光(2)p.392〕と呼ばれた。時には政治家の力を利用してアメリカ海軍内における航空部門の発展に尽力したが、飛行船事故により殉職した。 == 略歴 == ウィリアム・アジャー・モフェットは1869年10月31日、サウスカロライナ州チャールストンで、ジョージ・ホール・モフェット(1829年-1975年)の息子として生まれる。ジョージはアメリカ連合国陸軍の軍人で、ハグード旅団サウスカロライナ第25連隊の副将などを務めた。モフェットは海軍兵学校(アナポリス)に進学し、1890年に31位の成績で卒業したが、この頃はアナポリスの在校生の数は少なく、卒業年次から「アナポリス1890年組」と呼称されたモフェットの同期は、たったの34名であった〔#谷光(2)序頁〕〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、秋山真之らを輩出した17期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。 アナポリス卒業後、モフェットは士官候補生となり、練習艦「」および防護巡洋艦「ボルチモア」 (''USS Baltimore, C-3'') に配属される。1892年に少尉に任官後も、受講時代を挟んで海上勤務が続いた〔。1898年、ハバナでの戦艦「メイン」 (''USS Maine, ACR-1'') の爆沈事件をきっかけに米西戦争が勃発する。モフェットは米西戦争にてスループ「」および、故郷の名前を冠した防護巡洋艦「チャールストン」 (''USS Charleston, C-2'') 乗り組みとなり、1898年5月1日のマニラ湾海戦と7月から8月にかけてのにも参加した〔。戦争終結後は「ボルチモア」に再び配属され、1912年に戦艦「アーカンソー」 (''USS Arkansas, BB-33'') の副長となるまで水上艦勤務の他にグァンタナモ基地司令、海軍大学校教官などを歴任した〔。 1912年10月、中佐に昇進していたモフェットは軽巡洋艦「チェスター」 (''USS Chester, CL-1'') 艦長に就任〔。1910年以来続いていたメキシコ革命に際しては、アメリカ国民と財産を保護するためメキシコ湾に向かう。4月21日、モフェットは「チェスター」陸戦隊を率いて他の艦艇の陸戦隊とともにベラクルスに上陸し、税関を巡って戦闘を繰り広げる。戦闘の大勢は4月22日には決し、税関を占領することができた()。この功績が認められ、モフェットは名誉勲章を授与された。この時、モフェット以外に名誉勲章を授与された者の中には、空母任務群を指揮したフランク・J・フレッチャー(アナポリス1906年組)や室蘭艦砲射撃を行った(アナポリス1911年組〔:en:Oscar C. Badger II〕)、両用戦部隊を率いたセオドア・S・ウィルキンソン(アナポリス1909年組)などがいる〔:en:List of Medal of Honor recipients (Veracruz)〕。 1914年9月、モフェットは長となる〔。アメリカの第一次世界大戦参戦を経て、大佐に昇進後の1918年から1921年の間は戦艦「ミシシッピ」 (''USS Mississippi, BB-41'') 艦長を務めた。1921年、(航空局)が設置され、モフェットは初代局長に就任し、少将に昇進する〔#谷光(2)p.394〕。局長としてのモフェットは、航空戦術の創案や航空母艦の導入、民間航空機産業との関係強化を重要視した。また、空軍力の重要性や独自の空軍創設を説いていたビリー・ミッチェル陸軍准将の主張に賛同する。モフェットがこのような辣腕を振るえたのは、1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命されていたフランクリン・ルーズベルトと昵懇の仲だったからというのも一つの理由であるが、局長としてのモフェットや政治家との関係については、項を改めて述べる。 モフェットはさらに、飛行船導入や、飛行船から発進する軽航空機の開発にも取り組んだ。しかし、1933年4月4日に「アクロン」 (''USS Akron, ZRS-4'') に搭乗してニュージャージー州上空を飛行中に悪天候に見舞われ、「アクロン」は墜落して「アクロン」乗員とともにモフェットも殉職した。63歳没。モフェットはアーリントン国立墓地に、妻であるジャネット・ホイットン・モフェットとともに埋葬されている。モフェットの3人の息子のうち、ウィリアム・アジャー・モフェット・ジュニアは父同様に海軍に進んだのち2001年に死去し、父と同様にアーリントン国立墓地に埋葬されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・A・モフェット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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