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ウィリアム・オッカム : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・オッカム[かむ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

オッカム : [おっかむ]
 (n) Occam, (n) Occam
カム : [かむ]
 【名詞】 1. cam 2. (n) cam

ウィリアム・オッカム ( リダイレクト:オッカムのウィリアム ) : ウィキペディア日本語版
オッカムのウィリアム[かむ]

オッカムのウィリアム(、1285年 - 1347年 〔かつては1349年に死亡したとされていたが、現在は1347年没説が有力である。生没年については他に、1288年生まれ説、1300年ごろ生まれ説、1348年没説、1350年没説がある。〕)は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。
== 経歴 ==
1285年イングランドオッカム村〔Ockham, Occam や Hockham などとも綴る。〕に生まれる〔サリー(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 398ページ)〕。オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師〔聖書、教父、注釈学者の解釈を集めたペトルス・ロンバルドゥス命題集』を注釈する職のこと(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅰ 古代ー中世 原書房 2004年 398ページ)〕の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。
このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。
オッカムはフランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オッカムのウィリアム」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 William of Ockham 」があります。




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