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ウィリアム・ユワート・グラッドストン( , 、1809年12月29日 - 1898年5月19日)は、イギリスの政治家。 ヴィクトリア朝中期から後期にかけて、自由党を指導して、4度にわたり首相を務めた(第一次: 1868年-1874年、第二次: 1880年-1885年、第三次: 1886年、第四次: 1892年-1894年)。 生涯を通じて敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した。多くの自由主義改革を行い、帝国主義にも批判的であった。好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともにヴィクトリア朝イギリスの政党政治を代表する人物として知られる。 == 概要 == スコットランド豪族の末裔である大富豪の貿易商の四男としてリヴァプールに生まれる(''→出生と出自'')。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチ へ進学。同大学在学中にイングランド国教会への信仰心を強めた。1831年に同大学を首席で卒業する(''→イートン校、オックスフォード大学'')。 1832年ので初当選し、23歳にして保守党所属の庶民院議員となる(''→23歳で初当選'')。二度のサー・ロバート・ピール准男爵内閣(保守党政権)において下級大蔵卿(在職1834年-1835年)、(在職1835年)、(在職1841年-1843年)、(在職1843年-1845年)、陸軍・植民地大臣(在職1845年-1846年)を歴任して政治キャリアを積む。商務庁副長官・商務庁長官時代には様々な品目の関税削減・廃止を手がけ、自由貿易推進に貢献した(''→第一次ピール内閣下級大蔵卿、第一次ピール内閣陸軍・植民地省政務次官、第二次ピール内閣商務庁副長官、第二次ピール内閣商務庁長官'')。 1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂では、穀物自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離党した(''→穀物法をめぐる党分裂'')。保守党から離れたことで経済思想以外も徐々に自由主義化していった(''→自由主義化'')。特に1850年秋に訪問した両シチリア王国において過酷な自由主義弾圧を目の当たりにして保守主義に嫌悪感を持つようになった(''→両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り'')。 1852年には第一次ダービー伯爵内閣(保守党政権)の大蔵大臣ベンジャミン・ディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、同内閣の倒閣に主導的役割を果たした(''→ディズレーリとの初対決'')。続くアバディーン伯爵内閣(ピール派・ホイッグ党連立政権)においては大蔵大臣(在職1852年-1855年)として入閣し、更に多くの品目の関税廃止を実施して自由貿易を一層推進した(''→アバディーン内閣大蔵大臣'')。 1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党政権)が成立。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した(''→パーマストン外交を批判'')。 第二次ダービー伯爵内閣(保守党)期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった(''→自由党の結成'')。 第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣(自由党政権)には大蔵大臣(在職1859年-1865年)として入閣し、を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また「知識に対する税金」として批判されていた紙税を廃止した(''→第二次パーマストン内閣大蔵大臣'')。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣(自由党政権)では蔵相(在職1865年-1866年)留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが、敗れ、内閣総辞職に追い込まれた(''→第二次ラッセル内閣庶民院院内総務'')。 つづく第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった(''→ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって'')。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる(''→自由党党首に就任'')。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣(保守党)に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ(''→アイルランド国教会廃止を公約'')。 代わって組閣の大命を受け、第一次グラッドストン内閣を組閣した(''→第一次グラッドストン内閣'')。内政において様々な改革を実施した。まず先の総選挙での公約通りアイルランド国教会を廃止した(''→アイルランド国教会廃止'')。不在地主に理由なく追い出されたり、法外な地代をかけられたアイルランド小作人への補償制度を定めた法律も制定したが、これはほぼ「ざる法」に終わった(''→アイルランド小作農への補償制度'')。他の欧米諸国と比べて小学校教育普及が遅れていることを念頭にを制定して小学校教育の普及を図った(''→小学校教育の普及'')。外務省以外の省庁で採用試験を導入し、また軍隊の階級買い取り制度を廃することで、官界や軍における貴族優遇に歯止めをかけた(''→軍隊・官僚制度の改革'')。労働者上層に選挙権が広がったことを念頭に秘密投票制度の導入も行った(''→秘密投票制度の確立'')。労働組合法を制定し、労働組合が賃金と労働時間以外のことを交渉するのを解禁した(''→労働組合法'')。一方で外交は不得手で、ドイツ帝国の勃興やロシア帝国のパリ条約黒海艦隊保有禁止条項の一方的破棄などを阻止できず、またアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で賠償金を支払うことになるなど、相対的にイギリスの地位を低下させた(''→ドイツとロシアの脅威、アラバマ号事件'')。自由党内の分裂が深刻化し、1874年には所得税廃止を目指して解散総選挙に打って出るも、大英帝国の威信回復を訴えるディズレーリ率いる保守党が勝利し、総辞職を余儀なくされた(''→権威の低下、総選挙惨敗、退陣'')。 1875年には自由党党首も辞し、半ば引退した生活に入ったが(''→自由党党首引退'')、1875年から1877年にかけてのバルカン半島をめぐる騒乱でディズレーリ政権の親トルコ・反ロシア外交を批判する運動の先頭に立って政治活動を再開(''→反トルコ運動を主導、露土戦争をめぐって'')。総選挙を間近にした1879年には「」を展開し、ディズレーリの第二次アフガン戦争、トランスヴァール共和国併合、ズールー戦争などの帝国主義政策を批判した(''→ミッドロージアン・キャンペーン'')。 1880年の総選挙で自由党が大勝したため、第二次グラッドストン内閣を組閣した(''→総選挙に大勝、再び首相へ、第二次グラッドストン内閣'')。 アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の地代を地代法廷で決めるなど小作農保護を強化した(''→アイルランド小作農保護強化'')。また選挙区割りについて野党保守党に妥協することで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状態を実現した(''第三次選挙法改正'')。グラッドストンはであり、帝国主義には消極的だったが、オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命を鎮圧してエジプトを半植民地となした(''→オラービー革命とエジプト出兵'')。一方マフディーの反乱が発生したスーダンは放棄を決定し、国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣してスーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとしたが、ゴードンは撤退しようとせずに戦死したため、内閣支持率に大きな打撃を受けた(''→スーダンの反乱・ゴードン将軍の死'')。1885年にアイルランド強圧法を制定しようとしたことにアイルランド国民党が反発してソールズベリー侯爵率いる保守党との連携に動いた結果、議会で敗北して総辞職に追い込まれた(''→保守党とアイルランド国民党の連携で総辞職'')。 1885年のの自由党の勝利、また保守党政権とアイルランド国民党の連携の崩壊により、ソールズベリー侯爵内閣倒閣に成功し、第三次グラッドストン内閣を組閣した(''→政権奪還へ、第三次グラッドストン内閣'')。アイルランド国民党と連携してアイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が党を割って自由統一党を結成したため否決された(''→アイルランド自治法案'')。に打って出るも敗北して退陣した(''→総選挙敗北、退陣'')。 退陣後もアイルランド自治を掲げ、1892年のに辛勝したことでを組閣した(''→ニューカッスル綱領と総選挙辛勝、第四次グラッドストン内閣'')。再びアイルランド自治法案を提出するも貴族院で否決された(''→再度アイルランド自治法案'')。さらに海軍増強に反対したことで閣内で孤立し、1894年に首相職を辞職した。次の総選挙にも出馬することなく、政界から引退した(''→海軍増強に反対して閣内で孤立、総辞職、政界引退'')。 1898年5月19日に死去した(''→死去'')。 【↑目次へ移動する】 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・グラッドストン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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