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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ウィリアム・シャーリー(William Shirley、1694年12月2日-1771年3月24日)は、マサチューセッツ湾直轄植民地の総督を務めた、イギリス領アメリカ植民地の行政官である。また、1760年代にはバハマの総督にも就任した。ジョージ王戦争時にニューイングランドの民兵隊を召集して、軍事遠征計画の経験を得た。1745年のルイブールの戦いは、彼の名を一躍高からしめた。また、フレンチ・インディアン戦争でも軍事面で主要な役割を果たし、短期間ながら北アメリカ植民地部隊の総指揮官の任務に就いた。 シャーリーはマサチューセッツを取り巻くアメリカ植民地と本国の間の困難な問題を巧みにさばき、マサチューセッツの総督としては最長の任期を務めた。サー・ウィリアム・ジョンソンとの軍事関係のあつれきや、彼の後任のトマス・パウエルの政治的策略により、最終的に解任され、晩年はバハマの総督として赴任し、その後マサチューセッツに戻って死去した。 ==総督就任まで== ウィリアム・シャーリーは、父ウィリアムと母エリザベス・ゴッドマンの息子として、1694年12月2日に、イングランド王国のイーストサセックスにある、プレストンマナーで誕生した〔Schutz (1961), p. 3〕。ケンブリッジ大学のペンブルック・カレッジで学び、その後ロンドンのインナー・テンプルで法曹の仕事に携わった〔Wood, p. 13〕。1717年に祖父が亡くなり、オートホール(Ote Hall)と共に相続したいくつかの基金で、ロンドンでの書記の職を購入した。同じころフランシス・ベイカーと結婚し、多くの子供が生まれた〔Schutz (1961), p. 4〕。1720年には法廷弁護士としてのでの訓練を受けた〔Wood, p. 14〕 。シャーリーが相続した遺産の額は、かなりのものであったが(約1万ポンド)、ぜいたくな生活を送ったため、1721年の不景気では蓄えが底をついた。8人の子を持つ大家族でもあり、シャーリーは、北アメリカの植民地に職を得る必要に迫られた〔。結婚によって、トマス・ペラム=ホールズと縁故関係になっており、このペラム=ホルズがシャーリーのその後の生活を後押ししてくれた〔Wood, pp. 12–13〕。ペラム=ホルズその他による紹介状を武器に、1731年にシャーリーはボストンに着いた〔Schutz (1961), p. 5〕。 ボストン到着直後に就いた仕事は、検査官の仕事と、ニューイングランドでの勅撰弁護士の仕事だった。1741年には、マサチューセッツとロードアイランドの境界論争に関わる委員の職に就いた。この時期は、議論好きの総督ジョナサン・ベルシャーの任期の終盤で、シャーリーはベルシャーの後任となることを企み、推薦してもらえるよう、ベルシャーの反対派と組んで目的を達成した。シャーリーの代理として、イギリスで働く妻の助けを得て、1741年、ニューイングランド勢力の反ベルシャー派は、ベルシャーの解任と、シャーリーの総督就任とに組織的に動いた〔Schutz (1958)〕。総督としての始めの仕事である、議会で審議中の経済政策に影響力を持つことと、周囲を説得して自分への本俸を承諾させることとは、いずれも失敗に終わった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・シャーリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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